黒海の西部はこれといった見どころもなく、東部はといえば降水量が多く夏も比較的短いため、観光客があまり訪れることはない。とはいえ、サフランボルやアマスラ、トラブゾンなどではトルコのほかの町とはちょっと違った雰囲気が楽しめる。またそれほど観光化が進んでいないアルトゥビンやカチカル・ダーラル付近ではトレッキングやラフティングなどのアクティビティーができるほか、グルジア教会跡なども点在している。ヘムシンの谷付近は緑が美しいヤイラ(高原)が広がり、トルコマニアなら是非訪れたい。


アマシア
黒海地方の歴史
紀元前1000年代初頭に古代ギリシャ人は黒海地方の「未開人」と戦い、定住を始めた。ポントゥス山脈付近は重要な交易ルートとなり、紀元前7世紀から4世紀にかけてエーゲ海の都市の植民地が建設された。
ローマ帝国の支配がアナトリアに及ぼうとしていた2世紀ごろ、黒海の西を支配していたポントゥス王国パルティアの王・ミトリダテス4世はローマ軍を敗走させた。それでもローマ軍のこの地方への関心はやむことなく、歴代ポントゥス王の反撃にもかかわらず黒海地方はついにローマ帝国の一部となった。その後もローマ帝国の支配は主に黒海の西部に集中し、トラブゾンなどの東部は帝国の従属地方となるにとどまった。
ビザンツ帝国が1071年にセルジューク朝に敗れたマラズギルトの戦いの際も、中部アナトリアと黒海地方を隔てる山脈のため、黒海地方はあまり影響を受けることはなかった。一方、1204年の第4回十字軍遠征ではコムネノス朝のアレクシオス一世がビザンティウム(現在のイスタンブル)からトラブゾンに逃亡しトレビゾンド王国を建国するなど、黒海地方の歴史において重要な意味を持っている。トレビゾンド王国はジェノヴァ人やヴェネチア人に対抗するためにもセルジューク朝といい関係を保っていたが、オスマン朝が出現するとこの利益関係も終わりを告げた。19世紀初頭までポントス山脈付近の統治はデレベイと呼ばれる領主の支配下にあり、またトラブゾンではキリスト教徒の定住が続くなど、黒海地方に残るオスマン朝時代の建築物はトルコのほかの地方と比べて少なめである。
1825年から1915年の間、オスマン朝はトルコの民族分離運動を支持するロシアのツァーリ体制と4回にわたり戦い、黒海地方はこの戦争の舞台ともなった。1918年から1922年にかけて、ギリシャはポントス地方をめぐってアタテュルクの軍隊と戦ったが敗走。トルコ共和国建国後、黒海地方のギリシャ系商人は追放され、1930年代には飢饉も重なり、黒海地方は一時的な経済不況を迎えた。現在黒海地方の経済の中心は漁業である。