ワンとワン湖周辺

ワンとワン湖周辺(Van ve Van Golu)

ワン
トルコ東部の、フレンドリーな都市。現在のワンは第一次世界大戦後にできた新しい都市で、歴史的見どころなどはエスキ・ワン(古いワン)と呼ばれる市内から約4キロほど離れたところにある。ワン城もエスキ・ワンのそばにあり、ドルムシュでアクセスすることができる。
イラン・イラク国境付近の山岳地帯でのテロ対策として、テロ援助で疑われている村の人々は強制移住を強いられた結果、近年ワンの人口は飛躍的に増加した。同時にワンはトルコで最も軍隊が集中して配置されている都市で、住民と軍隊の間の不和を感じ取ることもできるだろう。

ワン城
ワン市内からドルムシュに乗ると、ワン城の東端で下ろされる。この地点から湖に向かって歩くと、アブドゥルラフマン・ガーズィの霊廟がある。このイスラーム教聖者の霊廟には多くの巡礼者が訪れ、特に不妊で悩む女性の巡礼者が多い。この上方にあるテラスはウラルトゥの神殿で、現在はいくつかのアーチ型のニッチしか残っていない。ニッチのなかにある像台座には、ウラルトゥの王の中でも重要なメヌア王の生涯や業績などが楔形文字で記されている。
さらに500メートルほど行くと駐車場やカフェなどがあるが、そのそばにはウラルトゥ王・サルドゥリ1世に関する碑文が刻まれている大きな石があるが、これはもともと防波堤であった。当時湖はこの地点まであり、現在の湖岸との間には約1キロほどの違いがある。
駐車場からはワン城へと登る階段が断片的に続いている。最初にたどり着くのは南側のテラスのような所で、エスキ・ワンが見渡せる。このテラスから地層のような階段を下りると、メヌア王の後継者であったアルギシュティ王の石彫りの墓がある。ここにも多くの碑文がウラルトゥ楔文字で残されている。墓の前には足跡の形をしたくぼみがあるが、これは悪魔の仕業だとされている。
テラスから上は城の構内へと続く。登るに連れて眺めはよくなるが、高所恐怖症の人にはつらいかもしれない。
オスマン朝時代にワン城は普通軍隊のほかにも3000ものイェニチェリが駐屯していた。この時代の遺跡のなかには廃墟と化したモスクやイスラーム修道院、兵舎などがある。
ワン城のサイクロピアン石造建築の土台は、のちにアルメニアやオスマン朝建築が重なったものの、もともとはウラルトゥ王国時代の要塞である。城内にはサルドゥリ1世(紀元前840年―825年)が最初の城壁を完成したことをたたえるウラルトゥ語の楔文字が記されている。
エスキ・ワンを見下ろすもう一つのテラスには、イシュプイニ王(紀元前825年―810年)とメヌア王(紀元前810年―786年)の石墓がある。メヌア王の業績の中に65キロにも及ぶ水道橋の建設があり、ホシャプ付近からワン城に水が引かれていた。現在も水道橋の一部は使われている。ワン城の北側には胸壁跡があり、この付近のテラスにはサルドゥリ2世(紀元前762年―733年)の墓がある。

エスキ・ワン
1915年に徹底的に破壊されたため、現在エスキ・ワンでは3つのモスクと不明確な遺跡しか残っていない。泥にまみれ、昔の街道もろくに識別できないほどで、人々はここからのワン城の眺めを楽しむためにエスキ・ワンを訪れる。ワン城に一番近いのは13世紀のウル・ジャーミィで、その尖塔は今でも登ることができる。モスクの上方の崖には紀元前5世紀のペルシアの王・クセルクセスをたたえる大きな楔文字の碑文がペルシア語、メディアン語、バビロニア語で記されている。
ウルジャーミィの南には16世紀のモスクが2つある。カヤ・チェレビジャーミィとヒュスレヴ・パシャジャーミィ。その他の遺跡は断片的に残っている中世の城壁や墓、ハマムなどである。かつてエスキ・ワンはクルド人とアルメニア人を中心に約8万人ほどの住民が住んでおり、アナトリアでも魅力的な町だったと言われているが、今はその面影すら残っていない。

ワン博物館
ワン市内の一番の見どころ。トルコ国内の博物館の中でも面白い展示品が揃っている。ワン付近のチャウシュテペから出土したウラルトゥ王国時代の金細工の装飾品や、石器時代(紀元前9000年―8000年)から青銅器時代にかけての様々な動物の石彫刻などが展示されている。また紀元前14世紀の子供の石棺や楔形文字の碑文などもある。
2階は民族誌学のセクションで、ワンやハッキャリのキリムなどが見学できる。またエルズルム博物館と同様、ここにも第一次世界大戦中に起こった大虐殺をテーマにした展示があるが、被害者はここでもトルコ人やクルド人となっている。

トプラクカレ
ワン中心地の北側に位置するウラルトゥ王国の城塞。現在軍事地帯となっているため中に入ることはできない。紀元前733年にアッシリア人に対抗するためルサス1世によって建てられた。略奪によって神殿などは破壊され、現在あまり見るべきものは残っていない。


ワン近郊のアルメニア教会

イェディキリセ(7つの教会)
ヴァラグの火山断層塊のふもとに位置するため、ヴァラグ・ヴァンクとも呼ばれる。ワンの東約15キロのところにあり、通常は立ち入り禁止ゾーン。かつてこの場所には7つのアルメニア教会があり、7世紀に設立された聖十字架の修道院に属していた。残念なことに地震などにより建造物のほとんどは破壊されてしまい、残っている建物は地元の村人によって離れ屋として使われている。村の南側には8世紀の教会が2つあるが、うち一つはほぼ完全に廃墟と化し、もう一つの教会の聖歌隊席は納屋となっている。北側には13世紀のものと考えられる聖グレゴリウス教会がある。ドームつきの教会で、地階は十字の形をしている。教会の入口には細かい石彫刻があるほか、内部には17世紀のフレスコ画が残されている。

チャルパナク
ワンから西に約25キロ、ワン湖から1500メートルほど離れたところに浮かぶ島。ワンの桟橋からボートをチャーターして行くと約90分かかる。ここには聖ヨハネ教会と修道院がある。教会は12世紀のものだが、修道院は15世紀初頭に建てられた。その後災害に見舞われた教会と修道院は18世紀初頭に修築された。トルコ東部の教会のほとんどは略奪に会ったが、この教会は島にあるため比較的保存状態もよい。

アクダマル教会
ワン湖の南に浮かぶ島に立つ10世紀のアルメニア教会。教会自体はアルメニア建築の優れた代表作だが、教会に興味がない人でもその美しい風景は見る価値がある。夏なら泳いだりピクニックもできる。
アルメニアのヴァスプラカン王国の統治者であったガジク・アトゥズルニにより915年から921年の間に王宮の大聖堂として建設された。宮殿や修道院も建てられたが現在教会のみが残されている。教会のデザインはアルメニア宗教建築の要約といえる。4つの後陣からなる平面図は小さめだが、中央の丸天井は20メートル以上ある。
教会の外壁は多くのレリーフが表現豊かに聖書に登場する出来事が描かれている。これらのレリーフの保存状態は抜群で、1000年以上昔のものとは思えないほどだ。南側にはヨナと大クジラをテーマにしたレリーフがあるほか、アブラハムやイサク、ダヴィデやゴリアテのエピソードが描かれている。北側にはアダムとイヴ、サムソンの頭をそるデリアのエピソードなどが見られる。またアルメニア特有の細かい石彫りの十字架(カチカル)も多く残っている。
教会の外壁には、西の外壁から始まり、レリーフの上方に葡萄のつるの格子棚が続いている。最初のシーンでは人類が堕落する前の女が動物を抱いている姿が描かれており、最後のシーンは狩や動物や葡萄を餌としている姿などがある。
教会の内部は損傷が激しく、壁画は落書きが書き込まれている。レリーフに登場する黄金の鐘や彩色つきの聖書は持ち去られ、現在モスクワ博物館が所蔵している。

聖トマス教会
ワン湖の南岸のほぼ真ん中に位置する教会。アルタンサチ村(昔のガンジャク村)から数キロ離れたところにある。ヴァスプラカン王国の最盛期である10世紀から11世紀にはすでに存在していた。平面図は十字の形で、西側には17世紀に増築された屋根つきの中庭がある。教会のドームは1581年に修築されたが、それ以外は建造されたときのままである。


チャウシュテペとホシャプ
ワンの南東にあるチャウシュテペには、ウラルトゥ王国の宮殿跡がある。紀元前764年から735年の間にサルドゥル2世によって建てられたもので、宮殿以外にも要塞跡などが残っている。
チャウシュテペから東へ行くと印象的なクルド人の要塞であるホシャプ・カレスィがある。ホシャプとはクルド語で「美しい水」の意。トルコ語で同じ意味を持つギュゼルスという村も近郊にある。地元のクルド人領主であったサル・スレイマン・マフムディの命令で1640年ごろに建設された。よくある伝説だが、完成した要塞に感嘆したマフムディは、これ以上素晴らしい要塞をつくらせないよう建築家の両手を切断したという。1671年につくられた石橋を通ってしばらく歩くと、巨大な塔への入口へとたどり着く。入口の上部にはライオンのレリーフやペルシア語の碑文があり、その後方には要塞内部へ続くトンネルがある。もともと内部には数百もの部屋やモスク、3つのハマムやイスラーム修道院があったが、現在はそのほとんどが残っていない。最も保存状態がいいのは天守閣。要塞の東側からは村を取り囲む泥の防御壁があるが、長年の侵食で湾曲している。


アフラト
ワン湖の西岸にある小さな町。ウラルトゥの時代から町が形成され、その後アルメニア人、アラブ人、ビザンツ帝国によって支配された。マラズギルトの戦いの後、セルジューク朝の領土となるが、1244年にモンゴル軍に占領され、約100年後にはイルハン朝の支配を受けた。アフラトは15世紀初頭には白羊朝の本拠地となった。1548年のオスマン朝の征服後も、この地の実権はビトリスのクルド首領が握っていた。アフラトは長い歴史を持つ多文化の町で、第一次世界大戦まではイスラーム教徒とキリスト教徒が共存していた。現在のアフラトは多少みすぼらしい町だが、今も町に残る広大な集団墓地は昔の町の規模を語っている。
町から南西2キロのところにはキュムベットと呼ばれる墓が点在しており、その数はカイセリと競うほど。墓の下には1人から4人までが埋葬でき、その上には外側から階段で上れる礼拝室がある。墓には円錐形の屋根があり、これは遊牧民のテントの形を取り入れたものと考えられている。アルメニア人石工士が手がけたキュムベットも多数あり、実際キュムベットという語はアルメニア語で「円錐の形をした丸屋根」という意味のgmbedから派生していると思われる。アフラトのキュムベットのなかでも一番大きいのは2階建てのウル・キュムベットで、ワン地方でも最大。13世紀のモンゴル首領の霊廟である。
ウル・キュムベットと外観がよく似ているチフテ・キュムベットは、その名の通り双子の霊廟である。これもモンゴル人の霊廟だが、2人ずつ埋葬されている。チフテ・キュムベットの近くには印象的なバユンドゥル・トゥルベスィがある。1492年に白羊朝の首領・バユンドゥルとその家族を埋葬するために建てられた。
町からワン湖に向かって、セルジューク朝の墓石群が2キロ平方にわたって広がっている。11世紀から16世紀のもので、大きさや形は様々。アフラトでは14世紀までアラビア語やペルシア語が主流であり、墓石に刻まれた碑文もトルコ語ではない。
町から北東へ進むと、湖のそばに要塞跡が見えてくる。これは16世紀にスレイマン大帝とその息子・セリムによって建てられたものである。要塞の胸壁からのワン湖の眺めは素晴らしい。

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