ミラ (Myra)

ミラはリキア同盟の中でも強力な都市で、ビザンツ時代初期にはクサントスを超えて同盟の首都となった。ミラ遺跡は今日のデムレから約1,5キロ離れたところにある。ミラ古代都市はデムレ川のふもとにある豊かな土地に位置していたが、そのほとんどは川の沖積で覆われてしまった。ミラはリキア同盟内の農産物交易などで栄えていたと考えられる。

ミラがいつ形成されたかというのははっきりとわかっていない。紀元前1世紀の文献で「リキア同盟のなかの強力な6都市の一つ」と記述される以前の文献は発見されていないが、要塞などから紀元前5世紀にはミラは存在していたと考えられている。

ミラの古代劇場はリキアで最大。劇場の上方には岩壁に彫りこまれた多くの墓がある。
ミラには巨大なアルテミス神殿があり、リキアのほかの神殿の中でも最も壮大なものであった。祭壇やアルテミス像などもあったが、4世紀に聖ニコラス(サンタクロース)がこの地域の多神教崇拝を排除するためにこれらの神殿を完全に破壊したため、現在は何も残っていない。
ローマ時代の18年にはローマ皇帝のゲルマニクスと妻アグリッピナがミラを訪問し、記念にミラの港(アンドリアス)に二人の像が建てられた。
聖パウロはイェルサレムで暴動計画の容疑で捕らえられたのち、ローマでの裁判へ向かう途中にミラの港で船を乗り換えた。ミラはエジプトとローマ帝国をつなぐ重要な港であり、おもに穀物を運ぶ船が寄港していた。聖パウロもローマへ向かう際、穀物船を使ったと考えられている。
ローマ皇帝ハドリアヌス帝は131年のミラ訪問の際、アンドリアスに大きな穀物倉を建てた。現在も遺跡が残っている。
ビザンツ皇帝テオドシウス2世はミラをリキア地方の首都に定めた。808年にアラブのカリフ、ハールン・アル・ラシードがミラを包囲すると、都市は衰退していった。11世紀の終わりにはセルジューク朝の侵攻を受け、ミラは廃墟となった。


ミラ遺跡

古代劇場
リキア最大の劇場。38列の客席があり、正面にはマスクやギリシャ神話にちなんだ彫刻がある。ダブルアーチの回廊は保存状態もよく、露天のあった場所では「ゲラシウスの店」と書かれた跡がある。

岩壁の墓
ミラの古代墓は2つに別れており、ひとつは劇場の上部にあり、もうひとつはネクロポリスの川と呼ばれるところにある。現在これらの墓は質素に見えるが、1840年にイギリス人チャールズ・フェローズがミラを発見した際、墓は赤や青などの色を帯びていたという。
劇場の西側には岩壁を彫ってできた多くの墓があり、なかには神殿風の墓もある。ほとんどは紀元前4世紀のもので、墓には葬儀の様子や故人の日常生活が描かれたものもある。
丘の東側にある墓の中には「塗られた墓」と呼ばれるリキアでも珍しい墓がある。この墓のレリーフには11の実物大の人物などが描かれている。

聖ニコラス教会
この教会はミラ遺跡に近いところにある。もともと聖ニコラスの棺の上に6世紀に教会が建てられた。現在の教会は9世紀に再建されたもの。1042年にはコンスタンティヌス10世の指揮下で修道院が加えられた。1863年にロシア皇帝アレキサンダー2世は聖ニコラス教会を買い取り、修築しようとしたが完成しなかった。1960年代に発掘作業が始められた。近年は壁画の修復が行われたばかり。床には大理石でできた美しいモザイクがある。大理石の棺には聖ニコラスの遺体が埋葬されていたが、遺体は1087年に盗まれ、イタリアのバリへと持ち出された。それでも世界中のキリスト教徒がこの教会を見に訪れる。

聖ニコラスは260-80年の間にパタラで生まれた。彼は若い頃両親を疫病で亡くしたあと大きな財産を引き継いだ。
二ケーアの公会議でイエス・キリストの神性に反論を唱えたアレイオスを殴ったため投獄されたが、聖マリアが公会議の主教が集まる場に現れ、聖ニコラスの無罪を言い渡したため解放されたという言い伝えがある。数々の奇跡を実現したほか、貧しい人たちへの思いやりの面でも有名である。1087年にミラがセルジューク朝の侵入で混乱しているときに、イタリア人商人がこっそりとイタリアのバリへと彼の遺体を持ち帰った。

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