マニサ (Manisa)

古代名マグネシア。ほかのトルコの都市同様マニサも歴史ある町だが、第一次世界大戦後のトルコ・ギリシャ戦争でギリシャ軍が小アジアから撤退する際に歴史的建物の約9割が破壊されてしまった。現在町の外観はいたって近代的だが、セルジューク朝・オスマン帝国時代の興味深い建築物も残されている。またマニサの東には古代リディア王国の首都・サルディス遺跡などもある。

マニサの歴史
ホメロスによると、マニサはトロイ戦争後に付近の戦士たちによって建設された。紀元前190年にはローマ軍とアンティオコス3世率いるセレウコス朝シリア王国の間の激戦地となった。ペルガモン王国の援軍により、戦いはローマ軍の勝利に終わった。ローマ帝国は報酬としてマニサの支配をペルガモン王国に与えたが、アッタロス3世の死後、マニサは再びローマ帝国領となり最盛期を迎えた。
13世紀にコンスタンティノープルが第4回十字軍により略奪・破壊されると、ビザンツ帝国は首都を一時マニサへと移した。1313年にはセルジューク朝の首領・サルハン・ベイはマニサを占領した。マニサに現在残る歴史的建築物のほとんどはこの時代からのものである。オスマン帝国時代にはスルタンの王位継承権を持つ子供たちは、マニサで州知事などを務めここで政治を学ぶなど、見習い期間をここで過ごしていた。

マニサの見どころ
オスマン帝国史で一番有名なスルタン、スレイマン大帝も幼い頃マニサで州知事を務めており、母と一緒に暮らしていた。マニサの中心地に立つスルタン・ジャーミィはスレイマン大帝の母・アイシェ・ハフィゼのために1522年に建てられた。このモスク周辺では毎年4月21日にメスィル・シェンリックレルと呼ばれるお祭りが開かれる。この祭りの発端はアイシェ・ハフィゼが体調を崩したときに、メルケズ・エフェンディと呼ばれる医者が樹脂を混ぜ合わせたペースト状の飴を作ったことにあり、長い歴史を持つ。このペーストはメスィル・マージュヌと呼ばれ、41のハーブを混ぜ合わせてできたもので、お祭りの日にはムエッズィン(礼拝の呼びかけをする僧)によってモスクの尖塔から群集にばら撒かれる。このペーストは食べると来年のお祭りの日まで健康に過ごせると考えられている。
スルタン・ジャーミィの向かいにはマニサでのビザンツ帝国支配を終わらせたセルジューク朝首領、サルハン・ベイの霊廟がある。サルハン・ベイはマニサの城塞であるサンドゥクカレを攻撃する際、角にろうそくを立てたヤギの群れを率いて大勢の軍が攻めているかのように見せかけたという。これに恐れをなしたビザンツ側は撤退し、こうして城塞は陥落したという。この出来事を記念にしたお祭りが毎年11月13日に催される。
この霊廟のすぐ近くにあるムラーディイェ・ジャーミィはムラト3世がマニサで州知事であった頃(1583-85年)に建てられた。モスク内部の装飾には12キロもの黄金が使用されているが、デザインは比較的質素。大理石でできているミンベルやスルタンの台座は壮麗で目を引く。ミフラーブや窓の周りにはイズニックタイルが上品に使用されている。スルタン・ジャーミィと同様、このモスクはもともと複合施設の一つで、典型的なデルヴィーシュの宿泊部屋の形をしたギャラリーがある。
ムラーディイェ・ジャーミィの隣にあるマニサ博物館はかつてイスラーム学生のイマーレット(台所)で、現在は青銅器時代からの出土品などが展示されている。ほかにもヘレニズム時代のヘラクレスやアフロディーテの像、巨大な杯、サルディスのシナゴーグから出土したモザイクや噴水などがある。隣接しているかつてのメドレセ(イスラーム修道院)にはオスマン帝国時代の作品が展示されていたが、現在は公開されていない。
博物館から東へ向かうと現在も使用されているマニサで最も古いイェニアラジャ・ハマムがある。ムラーディイェ・ジャーミィからイェニアラジャ・ハマムをつなぐムラト通りでは毎週木曜日に活気あるバザールが開かれ、果物から衣料まで何でも見つけることができる。
ムラーディイェ・ジャーミィと城塞の間の辺りには、マニサで一番古いモスクであるウル・ジャーミィがある。1366年にビザンツ教会があった場所にサルハン・ベイの孫であったイシャク・チェレビーによって建てられた。メドレセもモスクに隣接しており、現在もコーラン教室として使用されている。モスクの中庭に使われている様々な形の円柱にはギリシャ文字などが刻まれており、かつてここに立っていたビザンツ教会から借用したものと思われる。モスクの尖塔にはグリーンと赤紫色のレンガでストライプ模様が描かれている。モスクからはマニサのパノラマが眺められるが、はビザンツ時代の城塞、サンドゥクカレに登るとさらにいい景色が広がる。城塞の最も古いパーツは8世紀にさかのぼる。城塞の西側のシピュルス山(トルコ語名・シピル)のふもとにはニオベ・アーラヤン・カヤ(ニオベの泣く岩)と呼ばれる女性の形をした岩があり、この岩からは涙が流れ落ちるという伝説がある。ギリシャ神話によると、ニオベはタンタルスの娘で7人の娘と6人の息子がいた。ニオベはニンフ、レトに自分がいかに子宝に恵まれているかを自慢したため、これに怒ったレトは彼女の双子の子供、アポロンとアルテミスにニオベの子供たちを殺させた。幾日も嘆き悲しんでいるニオベに同情したゼウスは、彼女を岩に変えて涙を止めさせたという。

タシュ・スレト
マニサからサルディス方面へ約7キロのところに、タシュ・スレトと呼ばれる3300年前のレリーフがある。シピュルス山の岩に掘り込まれたこのレリーフには女神キベレに相当するヒッタイト時代の地母神が描かれており、下を流れるゲディズ川地域の豊作を祈ったものと考えられる。
シピュルス山はギリシャ神話に登場するタンタルスが支配していた地域としても知られている。タンタルスはゼウスとニンフの子であり、オリンポスの神々とも親しかった。彼にはニオベ以外にぺロプスとブロテアスという息子がいたが、ある日ぺロプスを殺して料理し、神々に差し出した。ことの真相を知った神々はぺロプスを食べず、生き返らせ(この際デメテルはあやまって左肩を食べてしまったものの、左肩は象牙となった)タンタロスは冥界へと送られた。ここでタンタロスを待っていたのは、永遠に続く飢えと乾き。すぐそばにある食べ物は手を伸ばすと遠のいてしまう。英語のtantalize(じらして苦しめる)はタンタロスにまつわるこの伝承が語源となっている。
タンタロスのもう一人の息子・ブロテアスが地母神のレリーフを彫ったと言われているが、これはヒッタイトのレリーフでありこの説は否定されている。
この地母神のレリーフが功を奏してか、この付近からサルディスにかけて広がる肥沃な平地はブドウ栽培で有名で、特に種無し葡萄(スルタナ)は世界一である。