ボドルムの歴史
ボドルムは紀元前11世紀にギリシャのペロポネソス半島から移住してきたドーリア人(ドリス人)の植民地、ハリカルナソスとして歴史に登場する。ドーリア人は現地のカリア人と混ざり合い、当時小さな島であり、現在ボドルム城が位置するゼフィシアに定住した。ハリカルナソスは当時クニドスやコス島のほかにロードス島の3都市(リンドス・カミロス・イアリソス)が属するドーリア人同盟「ドリック・へクサポリス」の一都市であり、定期的にクニドスで開かれていた集会にも参加していた。しかしハリカルナソスはイオニア的性格が色濃かったため、紀元前6世紀にはこの同盟から排除された。その後都市はペルシア人の支配を受けるが、ある程度の自治が許されていた。この時代のハリカルナソス出身の有名人として、歴史家ヘロドトスが挙げられる。次第にこの地域はアケメネス朝ペルシアの州知事(サトラプ)によって統治されるようになり、そのなかでも富と権力で有名なマウソロス(紀元前377-353年)の時代には、カリア国はほとんど独立国に等しかった。彼はギリシャ文化の崇拝者であったため、ハリカルナソスのヘレニズム化は促進された。また自身の権威を増大するために、自分の霊廟の建造を計画した。彼の死後、彼の妹であり妻であったアルテミシア2世によって壮大な霊廟は完成され、古代の「世界七不思議」のひとつになった。またこの霊廟は英語の「mausoleum(霊廟)」の語源ともなった。アルテミシア2世の死後カリア国は権力争いで揺れるなか、アレキサンダー大王はハリカルナソスに侵攻し、大損害を与えた。その後200年もの間都市は回復できず、人口も激減した。ビザンツ帝国からオスマン帝国まで、都市の重要性は失われたままで、1402年にロードス島出身の聖ヨハネ騎士団が建てた聖パウロ城のほかにこれといった遺跡はない。
ボドルム城(聖パウロ城)
聖ヨハネ騎士団によってセルジューク朝時代の要塞を増築して建てられた。要塞の基礎は1437年に完成したものの、さらに城壁や堀などが加えられた。この際、1453年のコンスタンティノープル陥落後、ボドルム城は小アジアで唯一のキリスト教徒の要塞となり、包囲された場合に備えて場内には14もの貯水槽があった。
1522年に聖ヨハネ騎士団の本拠地であるロードス島がオスマン朝のスレイマン大帝によって征服されると、ボドルムでの騎士団には後ろ盾がなくなり、この地から撤退せずを得なくなった。
19世紀になると城内の教会はモスクに変えられ、刑務所とハマムが加えられた。1915年、第一次世界大戦中にフランスの軍艦はモスクの尖塔や城塔などに損害を与え、戦後の短い占領の際にイタリア人によって多少修復された。しかし適切な修復は1960年代にボドルム城が博物館として公開されるまでなされなかった。
ボドルム城内の展示物
ビザンツ帝国時代、1025年に沈没した難破船が展示されている。1973年に潜水夫が発見し、1977年に発掘が始まった。いままで見つかった難破船のなかでは最古のもの。この船はビザンツ帝国とファーティマ朝の間を行き来していた商船で、船中には25トンものガラスが発見された。城内の教会には7世紀のビザンツ帝国の船の模型が展示されている。
ガティノーの塔には、騎士団が1513年から10年間使っていた拷問室が地下にある。「神のいない場所」とラテン語で書かれた地下室では、拷問を再現した人形がある。
イギリスの塔はヘンリー4世の時代に建てられ、王の紋章がある。
フランスの塔の中には、1989年にほぼ完全な形で発見されたカリア女王の石棺が展示されている。この墓はマウソロスの妹でありイドレウスの妻であったアダ女王の墓で、紀元前360年から325年の間に40歳で他界したと考えられている。アダ女王は金の冠やネックレス、ブレスレットなどの宝石とともに埋葬されていた。彼女の生前の顔も再現されている。
マウソロス霊廟
紀元前4世紀に建てられたこの霊廟は、マウソロスの死後妻アルテミシアによって完成された。建設には著名な建築家や彫刻家を招待し、そのなかでもスコバスは世界の七不思議のひとつであるエフェスのアルテミス神殿も手がけた。その壮大な霊廟は16世紀もの間崩れずに残っていたが、その後度重なる地震によって聖ヨハネ騎士団がボドルムに渡来した15世紀にはすでに崩壊していたといわれている。
霊廟の残骸は、オスマン朝の脅威に恐れた聖ヨハネ騎士団によってボドルム城の強化に使われた。レリーフなど霊廟のパーツが現在もボドルム城内で見ることができる。霊廟内のマウソロスとアルテミシアの遺体や財宝は略奪されており、この略奪が騎士団によるものか原住民によるものかはわかっていない。一方、騎士たちがボドルム城に霊廟からいくつかのパーツを持ち込み保管したのは確かで、これらは現在イギリスの大英博物館が所蔵している。