クシャダスから南へ約35キロのところにあるプリエネの雰囲気は、かつて神託で有名だったギリシャのデルフォイに似ている。伝承によると紀元前11世紀にギリシャのアテナイ人によってこの付近で定住が始まったといわれているが、海岸線が次第に土砂で埋められて遠くなると紀元前4世紀に現在の遺跡がある場所に都市が移された。この頃ちょうどアレキサンダー王がプリエネを通過し、女神アテナの神殿の建造の費用を負担した。イオニア都市の宗教中心地であったパニオニウム聖域はプリエネのそばにある現在のサムスン山にあったので、通常祭司はプリエネから選ばれていた。イオニア都市同盟の会議をつかさどる議長もプリエネ出身であることがほとんどだった。
ローマ・ビザンツ時代にはプリエネへの帝国支配は緩やかなものであったため、イオニア地方の中でも現在最も保存状態がよいヘレニズム遺跡となった。都市の設計はミレトス出身の建築家ヒッポダモスによるもので、彼はインスラと呼ばれる長方形の建物が並んだ格子状の都市プランに基づきプリエネを建設した。ひとつのインスラの中には4つの住居があったが、公共の建物はときに2つのインスラを使っていた。


プリエネの公会議場
プリエネ遺跡
遺跡の中央通りを行くと最初に見えるのはトルコ国内でも最もきれいに残されている市公会堂。演説者のパーツや犠牲祭壇などがある。市公会堂の東にある行政用オフィス(プリタネイオン)のなかには重要役人が使用していた食堂がある。
ひとつ下のテラスにはゼウス神殿とアゴラ、神聖なるストアがある。当時イオニア式やドーリア式の柱が優美に並んでいたが、現在はひざの高さほどの遺跡しか残されていない。しかしかつてはここが都市の中心であったと考えられる。下方にはジムナシウムとスタジアムが見えるが、夏には日陰もなく上り下りが多少困難なのであまり観光客が訪れない場所である。ジムナシウムの近くには競技者が使っていた浴槽跡があり、側溝や水が吹き出ていたライオンの頭像も見られる。スタジアムには陸上競技のスタート地点までが残されている。
プリエネの住宅地は中央通りの西側にあった。家のつくりはまず細い通路が中庭へと続き、中庭は様々な部屋で取り囲まれていた。また階段も発見されたことから、2階建ての家もあったことがわかる。
プリエネ遺跡の代表であるアテナ神殿は、住宅地跡からテラスを2つ登ったところにある。当時イオニア建築の傑作であったこの神殿の建築は200年もの時を経て完成し、神殿の設計者であったピュテオスが書いた建築マニュアル書はローマ時代でも広く読まれていた。30本の円柱のうち現在プリエネ遺跡の目印となっている5本は1960年代に修築されたものである。
アテナ神殿の北にはデメテルとコレ(ペルセフォネ)の聖域がある。遺跡の中で一番高いテラスにあり、ほかの神殿よりも100-200年ほど古い。ドーリア式の円柱の切れ端やいけにえ用の動物の血受け以外に特に神殿の形跡は見られない。
デメテルとコレの聖域から南東へ歩くと、かなりよく保存されている劇場がある。当時プリエネの平均人口であった5000人が収容でき、ヘレニズム時代からその観客席やレイアウトは変わっていないが、舞台の建物は2世紀のローマ時代に改築された。これはプリエネの公共の建物でローマ時代に手が加えられた唯一のパーツである。劇場には大きな大理石でできている5つの高官用の台座が残っている。ヘレニズム劇場のすぐそばにはビザンツ教会跡がある。
劇場からはアクロポリスへと続く道がある。アクロポリスは古代テロネイアと呼ばれていた崖にある。
プリエネ近郊
プリエネから西に約15キロほど行くとドアンベイという村がある。村はモダンな地区と昔ギリシャ人が住んでいたエスキドアンベイの二つに分かれており、エスキドアンベイの家のほとんどは現在修復され、普段イスタンブルなど大都市に住んでいる人々の別荘となっている。
エスキドアンベイからは標高1237メートルのサムスン山へも登ることができる。サムスン山の裏側には国立公園があるが、エスキドアンベイから登ったほうが野生動植物を多く見かけることができる。サムスン山でのトレッキングは大抵丸一日かかるので、日差しの厳しい夏は避け、春または秋に登るのがベスト。