パタラ (Patara)

パタラは昔、クサントス川に位置する重要な貿易港だったが、その後土砂の沖積によりマラリアが流行した湿地となった。現在パタラ付近は国立公園となっており、生息している鳥の種類も多い。ここではパタラ遺跡よりも、その12kmに及ぶ美しいビーチが観光客を引き寄せている。

パタラの歴史
パタラはリキア同盟の6都市のうちのひとつで、貿易で大変栄えていた。昔パタラにあったアポロン神殿での神託は有名で、ギリシャのデルフィ神殿やデロス島の神殿とライバルだったといわれている。太陽神アポロン(もともとは予言の神)は夏はデロス島で、冬はパタラで過ごしたといわれていた。アポロンの巨大な胸像がパタラで見つかったものの、いまだにその神殿跡は発見されていない。
アレキサンダー大王に征服されたあとも、パタラは重要な海軍基地であり続けた。
ローマ帝国時代にパタラはリキアとパンフィリアの両州の首都となった。パタラは「選ばれた都市」や「リキアの大都市」などと呼ばれ、これは紀元前2世紀に将軍トレボニウスのために建てられた記念碑の碑文からも覗える。紀元前138年ごろにはパタラの人口は2万人に達し、小アジアでエフェスに次ぐ大都市となった。ウェスパシアヌス帝やハドリアヌス帝もパタラを訪問し、都市の発展に貢献した。

パタラはまた聖ニコラス(サンタクロース)の誕生地としても有名である。

ローマ時代後期には略奪などが広がり、7世紀にはアラブ軍の艦隊がビザンツ帝国の地中海支配を脅かし始めた。アラブ軍の侵攻は次第にリキアを衰退へと導き、パタラは小さな町へと変わっていった。それでもパタラは10世紀にビザンツ帝国の海軍基地となり、オスマン帝国の支配後も15世紀までその港の重要性は失われなかったが、次第に土砂の沖積により港は湿地となった。

砂に埋まったパタラ遺跡の多くはまだ発見されていない。しかしこれまでに発掘された遺跡の中には、リキア同盟の集会が開かれていた議事堂など、重要な遺跡も含まれている。また世界最古と思われる灯台も最近発見されている。

灯台
最近発見された灯台は、一緒に発見された銅の碑文によると紀元後64年ごろにローマ皇帝ネロの時代に建設された。いまだに発掘進行中であり、高さは約16-20mと推測されている。遺跡の中には灯台監視人のものと思われる人骨も発見されたことから、この灯台は津波で破壊されたのではとも考えられている。これまでに一番古い灯台とされていたのはスペインにある2世紀に建てられたものだった。

アクロポリス
アクロポリスはビーチからも見える。このアクロポリスはパタラの最初の定住地で、新石器時代の居住地の外観である。紀元前7世紀の壷や斧などもここで発見された。

アクロポリスの向こう側には港の教会があるが、通常水中にあり葦などに覆われているため、干ばつのときでないと発掘ができない。この教会はその以前に建てられた神殿の円柱や扉などを使って建てられたもの。この発掘はかなり難しいために、考古学者たちはこれがあの有名な「アポロ神殿」ではないことを祈っている。

ネクロポリス
ビーチに続く道はこのネクロポリスを通る。墓のほとんどはこの地域のライムストーンでできているが、神殿風の墓は大理石でできている。また供養祭壇などもここで発掘された。

モデストゥスの凱旋門
アクロポリスの南東に立つ。パタラのシンボルともいえるこの凱旋門は、紀元後100年ごろにローマ帝国に属していたリキアとパンフィリアの最初の統治者であったモデストゥスを称えるために建てられた。保存状態もよく、このような凱旋門は小アジアでほとんど残っていない。

港の浴場
パタラ遺跡にある4つの浴場のひとつ。紀元後140年に建てられたと考えられているが、50年から75年の間に建てられた可能性もある。壷やランプのほかにも、6世紀のモザイクや街路なども発見された。浴場はユスティニアヌス帝の時代にも使われていたと考えられている。
東側には完全に破壊されたパラエストラ(闘技学校)があるほか、暑い部屋、暖かい部屋、冷たい部屋などもそれぞれ隣接していた。部屋の内部はそれぞれ大理石で覆われていたが、現在はほとんど残っていない。


道路標示
クラウディウス帝によって作られた。リキアの都市間の距離などが示されている。世界最古のわかりやすい道路標識。

ウェスパシアヌス浴場
リキア最古の浴場。その名前に反し、ウェスパシアヌス帝ではなくその建築スタイルからネロ帝の時代に建てられたと考えられている。碑文には「ウェスパシアヌス帝の建設した浴場」と書かれているものの、ウェスティニアヌスは浴場や水道橋を修築したのみとの説があり、いまだに明確なことはわかっていない。港の浴場と同様、パラエストラがあったと推測されている。また小アジアのローマ浴場の特徴であるジムナシウムも隣接していた。
パタラのメイン街道
保存状態のよい小アジアでも最大の古代街道。初期ローマ時代に建てられた。広さは12,6mで、今までの発掘の段階では長さ98m。水に沈んだ港から港の浴場まで街道は続いている。当時この街道には円柱が並び、一部はエジプトから運ばれた御影石でできているなど、大変華やかであった。街道は南の門を通り抜け、古代劇場まで続いていたと考えられている。南の門のそばには店舗などが並んでおり、この通りには屋根が付いていたと考えられている。

パタラ中央浴場
現在植物などに埋まっていて、いつ建設されたのかも明確ではない。大きな浴場で、ビザンツ時代にも増築された跡があるが、それが何のためだったかもまだわかっていない。
ほかの浴場と同様、ジムナシウムやパラエストラが隣接していたと考えられている。この付近ではジムナシウムに関する文献が発見されている。

古代劇場
数年前まで砂と草木に埋もれていた古代劇場は、もともとヘレニズム時代から存在した。1世紀初頭にはアポロン神殿の僧によって、また2世紀の地震のあともパタラの裕福な市民によって大幅に修築された。劇場にはディオニュソス神殿を思わせる部分が隣接しており、この劇場はもともとディオニュソス崇拝のためにつくられた可能性もある。
議事堂
リキア同盟のメンバーが会議を開いていた議事堂。いまだに発掘が終わっておらず、砂に埋まっている部分があるため議事堂は小さめに見えるが、実際は通常の議事堂よりも大きい。ローマ時代にリキア州とパンフィリア州が合併した際の寄贈品である像などが立っていた。

マルシア神殿墓とアクダム神殿墓
どちらの神殿墓の質は高く、石棺はアテネから輸入したものである。マルシア神殿墓に眠っているのは当時のパタラ出身の貴婦人マルシア・アウレリア。彼女はこの墓を建てるのに働いた奴隷たちに毎年500ディナール与えることを遺言とした。アクダム神殿墓はマルシアの墓よりも小さいが、保存状態はよい。石棺にはアマゾン族のレリーフなどが施されており、この種の石棺は当時大変高価なものだったと考えられている。

ハドリアヌス帝の穀物倉
131年にハドリアヌス帝のパタラ訪問の際に建てられた。かなり大きめの建物で、8つの部分に分かれており、2階建てだった。ローマへと輸出される穀物や食料品などはここにストックされていた。ほかにも貿易関係の建物などが隣接していたと考えられている。ハドリアヌス帝とその妻サビナは、ギリシャ神話の神ゼウスとヘラにたとえられ、崇められていた。ミラの港町であったアンドリアスにある穀物倉に似ているが、パタラのはあまり飾り気がなくシンプル。
コリント式ローマ神殿
この神殿の門はいまだに立っているものの、崩れ落ちる可能性もあるため触られていない。コリント式の柱頭はそれぞれとげのある葉などで細かく装飾されているが、なかにはドリス式のものもある。