カッパドキアへ向かうバスは必ずネヴシェヒルを通るなど、交通の便はよいが町の中にカッパドキアらしい風景は見当たらない。
ネヴシェヒルの南東には小さなムシュカラという村があるが、アフメット3世時代の宰相だったダーマート・イブラーヒム・パシャはこの村の出身だった。彼はイスタンブルで一財を築くために故郷を離れ、トプカプ宮殿で昇進したのちスルタンの娘と結婚、13代の宰相となった(ダーマートとは婿の意)。彼が故郷のネヴシェヒルに建てたダーマート・イブラーヒムパシャ・ジャーミィ(1726年)は今もこの町に残っている。周辺には一緒に建てられたイスラーム修道院や現在も使用されているハマムがある。
ネヴシェヒル博物館ではフリギア王国やビザンツ帝国時代の出土品などがわかりやすく展示されている。また3、4世紀のテラコッタ製の石棺などもある。月曜は休刊日。
ナル
ネヴシェヒルから北へ2キロ離れたところにある。ツアー客などが立ち寄ることはなく、そのためかレストランなどもないが、村自体は大変チャーミング。洞窟を利用している家々を過ぎ、丘へ登るとそこにはオスマン朝時代の墓地がある。ナルへはネヴシェヒルから頻繁にドルムシュが出ている。
アチュックサライ
ネヴシェヒルから北へ約19キロ。きのこ岩を使って6世紀から7世紀の間に建てられた修道院がある。この修道院には教会や食堂、寝室や台所などもあり、また近くには女子修道院もあった。アチュックサライからギュルシェヒル方面に2キロほど行くと、聖ヨハネ教会がある。
ネヴシェヒルからギュルシェヒル方面へのドルムシュも頻繁に出ている。
ハジュベクタシュ
ここにある博物館は13世紀の偉大な神秘主義者であるハジュ・ベクタシュ・ヴェリに捧げられたものである。この村はハジュべクタシュ自身によってデルヴィーシュ(イスラーム神秘主義僧)の中心地として選ばれ、彼の死後この村は彼の名前にちなんでハジュベクタシュと改名された。ハジュベクタシュヴェリの霊廟は修道院のなかにあるが、修道院の重要な部分はオスマン朝時代に完成した。
ハジュベクタシュの教えはイスラーム教の世界に広まり、ベクターシュ、アレヴィー、タフタジュなどの異なるイスラーム教宗派は彼の教義に基づく伝統を受け継いでいる。またこれらの宗派とトルコのイスラーム原理主義者との間にも摩擦が生じている。
ハジュベクタシュの生涯についてはあまり知られていないが、1209年に生まれ1271年に没したといわれている。当時の知識人と同じく彼もイランのホラサーンで教育を受け、ここで神秘主義に精通したといわれている。彼はアナトリアに戻るとカイセリ、シワス、クルシェヒルで暮らした。その後当時7つの家しかなかった小さな村、スルジャホユックにに定住した。ここが現在のハジュベクタシュである。
ハジュベクタシュ・ヴェリは兵隊や農民の精神的指導者であり、トルコ語やトルコ文学を推進し、オスマン朝がまだこの地を支配する前にイスラーム教を根付かせた。ベクターシュ派の儀式のなかにはキリスト教に似ているものもあったせいか、ハジュベクタシュの死後も急速に広がった。
ハジュベクタシュ教団はイエニチェリ軍団とも深いかかわりがあり、マフムート2世の時代にイエニチェリ軍団の廃止とともに教団も禁止されたが、1863年に解禁された。
ハジュベクタシュはオニキスでも有名で、博物館の周りのお店で売られているのがよく見かける。
ハジュベクタシュ修道院
修道院自体はオスマン朝の第二代スルタンであったオルハンの時代に始まった。20世紀に修復されたあと、1964年に博物館として公開された。内部には3つの中庭があり、2番目の中庭には「アスラン・チェシメスィ(ライオンの泉)」があり、1853年にエジプトから取り寄せられたライオンの像がある。中庭の右側にある台所には「カラカザン(黒い釜)」と呼ばれる聖なる大釜がある。ベクターシュ教団やイエニチェリ軍団にとってこのカラカザンは共有の象徴であり、おそらくこの象徴はキリスト教の「最後の晩餐」にも関係していると思われる。スルタンを廃位させるほどイエニチェリの権力が増した時代にはカラカザンの象徴も変わった。イエニチェリはカラカザンをひっくり返すことによってスルタンへの不満を示すようになったという。実際セリム3世はイエニチェリを廃止して新軍団を取り入れようとした際失脚した。
中庭の左側にはメイダン・エヴィがあり、ここには1367年の碑文が残されている。ここではベクターシュ教団の入団式や告白などが行われていた。木材の屋根はきれいに修復され、中央・東アナトリアでもいまだに使われている昔の建築技術を垣間見ることができる。現在メイダン・エヴィには楽器やハジュ・ベクタシュ・ヴェリの肖像画などが展示されている。
第三の中庭はバラ園で、アクカプと呼ばれる典型的なセルジューク朝のモチーフで装飾された門を通るとハジュベクタシュ・ヴェリの霊廟が霊廟とアクカプの間にある小さな部屋は、ハジュベクタシュ・ヴェリ自身が使っていた独房だといわれている。
デリンクユとカイマクル
カッパドキア地方にはこれまで40ほどの地下都市が発見されているが、その中でも公開されているのがデリンクユとカイマクルの地下都市で、カッパドキア地方の一番の見どころといえる。どちらもネヴシェヒルからニーデに行く道上にある。周辺にきのこ岩はないが、地面はきのこ岩と同じやわらかい凝灰岩でできており、長年敵の包囲に苦しんだカッパドキア人は最大30万人が収容できるこれらの地下都市をつくった。
ヒッタイト時代のライオンの像などが発掘されたことから、これらの地下都市は少なくともヒッタイト時代(紀元前1900年から1200年)には存在していたと考えられる。紀元前1200年にヒッタイト人がトラキアからの移動してきた部族に攻撃を受けた際、この避難所として使っていた可能性もある。ヒッタイトの滅亡後、ほかの民族によって地下都市はさらに深く増築され、教会やワイン貯蔵庫、宣教師学校などがあることからキリスト教徒によって使われていたことがわかる。ギリシャの軍人であり著述家であったクセノポンもカッパドキアの地下都市について述べていることから、少なくとも紀元前401年までにはここに住民が定住していた。
デリンクユの意味は「深い井戸」。ネヴシェヒルから約29キロで、ドルムシュでアクセスできる。地下都市の内部はきちんと照明されていて、当時の換気システムもいまだに機能している。通路の中にはかなり狭いところもあり、ほかのツアーグループと遭遇するとちょっと窮屈かもしれない。これまで発掘されたのは地下8階までで、その深さは55メートルだが、地下都市全体の4分の1だと推測されている。公開されているのは馬小屋、ワインプレス機、食堂、学校、教会、兵器庫、会議室や墓など。会議室の隣には円形の通路があり、ここはざんげ室だったと思われる。地下都市全体には無数の喚起管があり、地下1階だけでもその数は15,000ある。各階の間には秘密の通路があり、また9キロ離れたカイマクルへの逃げ道さえもある。巨大な円形の扉も当時の住民の驚くべき作品である。この扉は外から開けることはできないが、内側からは扉にある小さな穴に棒をさし開け閉めすることができた。またこの穴から槍などで敵を攻撃することもできたという。
デリンクユから9キロ離れたところにある。地下5階の都市でデリンクユに比べると規模も小さい。都市のつくりはデリンクユのものと似ているが、通路などは比較的広いところもある。
ウチュヒサル
ネヴシェヒルからギョレメ方面に7キロのところにある、カッパドキアらしい村。ネヴシェヒルよりは雰囲気がいいし、ギョレメほど観光地化されていない。ここには高さ60メートルの城壁があり、日没時のここからの眺めはすばらしい。カッパドキアを形成した火山であるエルジエス、ハサン、メレンディズまでが見渡せる。