ドウ・バヤズィット

ドウバヤズィット(Dogubayazit)

イラン国境に近い町、ドウ・バヤズィットはイランとトルコを行き来する商人で賑わっている。以前はテロの問題などで外出も簡単にできなかったが、現在町の状態は比較的安定しており、イスハクパシャ宮殿を見学したりアララト山の眺めを満喫することができる。

イスハクパシャ宮殿
町から南東に6キロ離れたところにある。標高2000メートルの高原に立ち、ドウ・バヤズィットを見下ろしている。西洋が近東に対して抱くイメージをそのまま再現したような宮殿で、実際にセルジューク朝、オスマン朝、アルメニア、グルジア、ペルシア建築の影響が宮殿のあらゆるパーツに残されている。
この地の地理的重要性はウラルトゥ王国の時代から意識されており、セルジューク朝やオスマン朝も東西のシルク・ロード貿易をコントロールするためにここに城塞を建てた。
イスハクパシャ宮殿自体は、1785年に地元首領であったチョラク・アブディパシャ(出身はクルド、アルメニア、グルジアのいずれかといわれている)によって建設が始められた。軍事要塞と言うよりはザナドゥの歓楽の都といった感じである。チョラク・アブディパシャの息子のイスハクパシャが19世紀初頭に宮殿を完成させた。伝説によると、イスハクパシャ宮殿の建築を担ったアルメニア人建築家は、宮殿が完成した後これ以上素晴らしい作品を手がけないために両手を切断したという。
1877年になると宮殿はロシアに対抗するためオスマン帝国により兵舎として使われるようになった。
宮殿への壮大な門にはかつて金張りの扉があったが、1917年にロシアがアナトリアから撤退した際持ち出され、現在サンクト・ペテルブルクのエルミタージュ美術館に展示されている。外庭から中庭へ装飾の凝った門から入ると、目の前にはハレムの入口があり、その右側には男性用のセラムルックへ通じる入口がある。
ハレムには暖炉つきの14もの寝室があり、1877年には400もの兵隊が駐屯していた。台所や2つのバスルームがあるほか、ハレム中央にはダイニング・ホールがある。
セラムルックのなかには寝室のほかにモスクもあり、レリーフ装飾の保存状態は良好。セラムルックからは別のモスクや廃墟となった要塞が見渡せる。このモスクは1514年にチャルドゥラン(ドウ・バヤズィットから南70キロ)の戦いでペルシア人に勝利したセリム1世の時代に建てられたもの。要塞の方はかなり古く、ウラルトゥ時代にさかのぼると考えられるが、残っているアッシリア時代のレリーフのほかは、比較的最近のものである。この付近はエスキ・バヤズィットと呼ばれ、ウラルトゥ王国によって建設されて以来定住されていたが、1930年にクルド人の反乱が起こった際住民は強制的に立ち退かされ、現在のドウ・バヤズィットで新しい町が建設された。
イスハクパシャ宮殿へはドウ・バヤズィットから往復タクシーが利用できる。観光シーズンでない時期に見学する際は宮殿のオープン時間を確認してから出発したほうがよい。

アララト山(アウル・ダー)
ノアの箱舟が流れ着いたと考えられている、トルコで一番高い山。ふたつの山頂があり、ひとつは5165メートルのビュユック・アウルで、もうひとつは3925メートルのキュチュック・アウル。1829年にドイツ人科学者のヨハン・ヤコブ・パロットが登頂に成功するまで、アルメニア聖職者はアララト山を神聖視し、登山は禁止されていた。トルコ当局も1950年までアララト山での登山活動を禁止していた。
アメリカ人宇宙飛行士・ジェームス・アーヴィンをはじめとしてノアの箱舟の捜索が行われたものの、これまでに何の形跡も見つかっていない。創世記に登場するノアの箱舟がたどり着いた「アララトの山脈」は、実際のところ間違った解釈につながりやすい。アララトとはアッシリア語でウラルトゥ王国のことを指し、そのため地理的にワン湖までの幅広い範囲を意味する。チグリス川とジズレという町に近いところにジュディ・ダーという山があるが、ここは中世前にはムスリムやキリスト教徒、ユダヤ教徒の巡礼の地であり、この山もノアの箱舟伝説に関連しているという説もある。それでもアララト山の向こう側にあるアルメニアでは、今でもアララト山は聖なる山であり、特別な意味を持つ。

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