古代名はトレビゾンド。トラブゾンはヨーロッパではイスタンブルとともにエキゾチックなイメージで知られているが、おそらく他のトルコの都市とは違うトラブゾン特有の歴史のためであると思われる。アナトリアでも有数のフレスコ画があるアヤソフィア寺院や、スメラ修道院などが主な見どころ。かつての旅行家マルコ・ポーロもトラブゾンを訪れた際、大変感銘を受けたという。
トラブゾンの歴史
紀元前8世紀頃にシノップとミレトスからのギリシャ植民によって今日のクズグンとタバックハーネの谷に定住が始まった。その岬の山頂が平たくテーブルに似ていたことから、この町はトラペズス(トラペザはギリシャ語でテーブルの意)と呼ばれるようになり、今日のトラブゾンの名もここから派生した。
ローマ帝国・ビザンツ帝国の時代にもトレビゾンドは繁栄し続けた。この理由としてハドリアヌス帝やユスティニアヌス帝がトラブゾンを特にひいきにしていたほか、シルクロードの北東の最終点であることが挙げられる。
トラブゾンの黄金時代は13世紀から14世紀にかけてである。1204年にコンスタンティノープル(現在のイスタンブル)が十字軍により占領される1ヶ月ほど前、ビザンツ帝国コムネノス王朝の血を引くアレキシウスはトレビゾンドへ逃げ出し、自らを正統なビザンツ皇帝であると宣言した。ほかにも似たような「正統ビザンツ皇帝宣言」がエピルス(現在のアルバニア)やニケーア(イズニック)で起こったがトレビゾンド王国のように成功しなかった。13世紀にモンゴル族はシルクロードのルートをタブリーズ-エルズルム-トレビゾンドと変更したため、王国の重要性は増した。また外交面において王国の王女は政略結婚することが普通で、相手はムスリム、キリスト教徒を問わなかった。ムスリムと結婚した不幸なトレビゾンド王国の王女の話はヨーロッパにも伝わり、特にセルヴァンテスの「ドン・キホーテ」は明らかにこの物語の影響を受けている。
トレビゾンド王国と最初に貿易を始めたのはジェノヴァ人で、のちにヴェネチア人も加わった。これとともにトレビゾンドではほかのアナトリア都市とは違うヨーロッパの文化・学問が栄えた。しかし、王国内ではコンスタンティノープル出身の廷臣とトレビゾンドの貴族との間に争いが起こり、1341年の内戦で都市は破壊され、この時点からトレビゾンド王国は衰退の一途をたどっていった。
コンスタンティノープルの陥落後、黒海方面へ勢力を伸ばしていたメフメト2世に対し1461年、最後の王ダヴィットは降服しトレビゾンドはオスマン帝国領となり、トラブゾンと改名された。スルタン・セリムヤヴズは若い頃1490年から1512年の間トラブゾンの州知事となり、また彼の息子であるスレイマン大帝もトラブゾンで生まれ、即位するまでこの都市で教育を受けた。
オスマン帝国末期、トラブゾンでは裕福な商人階級によりヨーロッパの領事館や豪華な建物などが建てられ、トレビゾンド王国の繁栄を取り戻すかのように見えた。しかしその後まもなく第一次世界大戦や共和国の建国が続き、またアンカラとエルズルム間の鉄道開通などで、トラブゾンの重要性は失われた。
トラブゾンの見どころ
アタテュルク広場とウズン通り付近
アタテュルク広場付近にはトラブゾンのホテルが点在している。ここから東へ降りるとそこにはルス・パザル(ロシアン・バザール)で、東ヨーロッパやロシアの品物が売られている。この付近のホテルは売春目的の怪しいホテルが多いので、ここでの宿泊は控えたい。
アタテュルク広場から西へは、トラブゾンと姉妹都市であるカフラマンマラシュの名が付いた通りが伸びている。この道と平行したクンドラジュラル(靴屋)通りからトラブゾンのバザールが続いている。その名前とは反対に靴屋はない。この道はセメルジレル通りに続き、この通りでは黒海地方の女性の必需品であるケシャン(ショール)やぺシュタマル(腰巻)が売られている。さらに奥には16世紀のタシュ・ハンやベデスタンがトラブゾンで一番大きいモスク・チャルシュ・ジャーミィーの周りにあり、ここはバザールの中心地である。
ベデスタンは14世紀にジェノヴァ人によって建てられ、オスマン朝時代に修築された。外側からは正方形の建物のようだが、内に入ると実は八角形なのがわかる。かつて48の店舗が並んでいたが、今日は材木工場として使われている。
カフラマンマラシュ通りに戻ると、9世紀のビザンツ教会キュチュック・アイヴァシル(聖アンナ教会)がある。この教会は公開されておらず、内部のフレスコ画はトルコ共和国建国後取り除かれてしまった。おそらくウズン通りに点在するベル・エポック時代の邸宅のほうが興味ある建物かもしれない。このなかでも代表的なのはコスタキ・コナウで、現在博物館として公開されている。
旧市街
ウズン通りの西にあるタバックハーネの谷はトラブゾンの定住が始まった旧市街の中心地。旧市街の南側には13世紀のイェニジュマー・ジャーミィーがある。このモスクはもともとキリスト教の聖人・ユージニアスの教会だった。教会の建つ場所は3世紀ごろに神殿があったと思われる。ユージニアスはボズテペのミトラ教を崩壊させた後、ディオクレティアヌス帝によって殺害された。
彼の骨はトレビゾンド王国の創始者であるアレキシウス・コムネノスの時代に発見され、現在のイェニジュマー・ジャーミィの場所に教会が建てられた。その後メフメト2世がトラブゾンを征服したのち教会に尖塔が付け加えられ、金曜礼拝をここで行うようになった。
タバックハーネ橋を渡るとそこにはオルタヒサール(中央城塞)がある。城塞の中にあるオルタヒサール・ジャーミィー(別名ファーティヒ・ジャーミィー)は、もともとパナイヤ・クリソケファロス教会だった。イェニジュマー・ジャーミィーと同様、3世紀ごろに同じ場所にほかの教会が立っていたと思われる。しかし現在の建物は13世紀のもので、1341年の内戦後、大幅に修築された。ここはトレビゾンド王国の大聖堂で、王族の結婚式や葬儀はここで執り行われた。クリソケファロスとはギリシャ語で「金の頭をした」の意味で、これはコムネノス王朝が金のドームを教会に建てさせるほど、王朝が絶頂期に達していたことをあらわしている。もちろん金のドームはなくなってしまったし、フレスコ画は塗りつぶされ、13世紀の床のモザイク画はセメントで埋め立てられてしまっており、過去の栄光の影はどこにもない。イスラーム礼拝の時間帯以外は鍵が閉まっている。
この教会からカレ通りを400メートルほど上ると、コムネノス朝の皇帝が住んでいたビザンツ宮殿がある。現在は完全に廃墟となっていて、昔の壮麗な面影はどこにも見当たらない。
オルタヒサール・ジャーミィーから西側の城塞入口から出るとザウノス橋がある。これはメフメト2世の将軍でありイスラーム教に改宗したギリシャ人によって建てられた。その先にあるザウノス塔は以前地下牢として使われていたが、近年改装されてジンダン・レストランとなった。
ギュルバハル・ハートゥン・ジャーミィーはトラブゾンで最も重要なオスマン朝建築。ギュルバハルはコムネノス王朝の王女で、ベヤズィット2世の妻でもあった。生前その敬神さとキリスト教徒やムスリムに対する奉仕は評判だった。1512年にギュルバハルが亡くなると、息子セリム1世は母のためにモスクと霊廟を建造、2年後に完成した。このモスクからソウックス通りを登っていくと19世紀末の豪華なブルジョワ風建築が見られる。
アタテュルク・キョシュク
ギリシャ人銀行家カラヤニディスの邸宅として1903年に建てられたが、トルコ共和国建国後の1923年にカラヤニディス自身は立ち退かざるを得なくなった。その後アタテュルクはトラブゾン訪問の際この邸宅を利用しており、彼が死去する1年前に正式にアタテュルクに寄贈された。
アヤソフィア寺院
1238年にトレビゾンド王国の王マニュエル1世によって1238年から1263年の間に建造された。その以前にもこの場所にはまず神殿があり、その後ビザンツ教会が立っていたと考えられる。
アヤソフィア寺院の建築構造は当時にしては革命的で、キリスト教とイスラーム教建築の流れをうまく取り入れたものだった。イスタンブルのカーリエ博物館やパマカリストス教会(現在のフェティエ・ジャーミィ)を見ると、これらの教会がアヤソフィア寺院の影響を色濃く受けていることがわかる。アヤソフィア寺院は1461年にモスクに変えられた後、弾薬倉庫や病院などとしても使われた。1954年から1964年の間に外国の技術士チームがアヤソフィア寺院を修復し、とくにフレスコ画は昔の栄光を取り戻した。これらのフレスコ画は同時代に描かれたコンスタンティノープルの教会と比べて、生き生きとしており温かみがあり、以前の硬直したフレスコ画とは違っている。そのなかにはイエス・キリストの昇天や聖母マリアのほかにもカナの結婚式、ヨブの苦しみなどが描かれている。
1443年に追加されたイタリア風の鐘塔が開いていることはほとんどないが、内部にもいくつかフレスコ画が残っている。
ボズテペ
昔から宗教の中心地であったボズテペでは、古代にはペルシアの太陽神ミトラやギリシャの太陽神アテネなどが崇拝されていた。トラブゾンのようにあまり太陽の光が強くない町での太陽神信仰は多少不思議である。キリスト教が布教すると、この丘には数々の教会や修道院が建てられた。
アタテュルク広場から約1,5キロ離れたところにあるクズラル・マナストゥル(女子修道院)は14世紀に建てられたが、1923年までギリシャ正教会によって使用されていたため、内部の保存状態はよい。
またトレビゾンド王国時代にイスラーム教の布教に貢献したアヒー・エヴレンのモスクと霊廟もボズテペにあり、ムスリムの巡礼地となっている。
さらに南へいくとカイマクルにアルメニア修道院があり、ここのフレスコ画はアヤソフィアとスメラ修道院の次に保存状態がよい。建物のほとんどは15世紀半ばに建てられたが、フレスコ画自体は17世紀以降のもの。現在修道院周辺は農耕地となっており、現地の人々が修道院を案内してくれることもある。
スメラ修道院