イスタンブル一番の見所。ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープル陥落後、征服王、ファーティヒスルタンメフメット2世によって建築され、マフムート2世(1808-39)の代まで約4世紀に渡って歴代スルタンの住居であった。はじめこの宮殿の住人は750人ほどであったが、その数が次第に増えるとともに宮殿は増築を繰り返し、19世紀には約5,000人が住んでいたという。1853年にアブドゥルメジト1世が宮殿をドルマバフチェに移すと、トプカプ宮殿の役割は終わりを告げた。
トプカプ宮殿の最初の建築物はサライ・ジェディド(新しい宮殿)と呼ばれ、1459年から1465年にかけて建造された。トプカプ宮殿の始まりとなるこの建造物が完成した後も、メフメト2世は「古い宮殿(現在のイスタンブル大学構内にあった)」からしばらくは住居を移さなかった。メフメト2世自身が新しい宮殿に住み始めた後も、妻や子供たちが住むハレムは古い宮殿に残ったままであった。
トプカプ宮殿はイスラーム建築の伝統に従い、いくつかの中庭から成り立っている。オスマン帝国時代第1の中庭へは誰もが出入りできたが、第2の中庭へは主に帝国の政府関係者以外は通行が許されなかった。実際、第2の中庭に位置する建物のほとんどはディーヴァーンと呼ばれるオスマン帝国の評議会に属していた。第3の中庭にはスルタンたちの学校や市民を宮殿の奉仕者として育成する施設などがあり、第4の中庭にはオスマン帝国君主たちのプライベートな建物や、各地での征服を記念に建てたキョシュク(小さな別荘)などがある。
第1の中庭とアヤ・イリニ教会
トプカプ宮殿の最初の門は征服王・メフメト2世のBab-i Humayun ( 帝国の門 )で、門の正面にはアフメト3世の噴水がある。帝国の門をくぐると第1の中庭があり、左側にはイスタンブルでも最古の教会のひとつであるアヤ・イリニ(聖なる平和の意)が見える。もともとは4世紀に建てられたが、532年のニカの乱で焼失したのち再建され、740年に現在の形となった。アヤ・イリニ教会は普段公開されていないが、毎年夏に催されるイスタンブル音楽祭でコンサート会場として使われることがある。
第2の中庭構内
入場券売り場は第2の門であるBabus-Selam ( 挨拶の門 )のそばにあり、ここから先が博物館内になる。これをくぐるとすぐ左にはメフメト2世の馬小屋があ
宮殿内の主な見所のひとつである後宮(ハレム)の入場口はこの第2の中庭にあるが、個人では入場できず、ある程度の人数がハレムの入場口に集まった後、グループにガイドが同行したうえ見学できるようになっている(ハレムの入場券は一般入場券とは別途購入が必要)。
オスマン帝国の重要行政機関であったディーヴァーンの建物もハレムへの入り口の向かい側にある。ディーヴァーンとはもともと「長いす」の意味で、その広間に並んでいる長いすからこう呼ばれるようになった。建物の基礎はメフメト2世の時代に築かれたが、後世のスルタンたちによって広間のつくりはかなり変えられた。ディーヴァーンに属する部屋のうち、一番左は評議会が行われていた広間で、窓格子がついている。これは「スルタンの目」と呼ばれていて、かつてスルタンは会議の様子をここから伺っていた。評議会の広間は1945年にイズニック産のタイルやアラベスク風の絵画を使って16世紀のスタイルに修復された。ディヴァーンに属するほかの2つの部屋はアフメト3世時代のロココ式の装飾がほどこされている。
ディーヴァーンの隣にはオスマン帝国の歴代スルタンたちの刀などが展示されている部屋がある。ここはメフメト2世の時代から残っている建物で、彼自身が愛用していた刀も展示してある。
中庭をはさんで向かい側(第2の門から入って右側)はかつての宮殿の台所で、多くの煙突が並んでいる。1574年の大火事で台所のほとんどは焼失してしまい、煙突をはじめ10つあるドームのうち8つはミマール・スィナンによって再建されたものである。火事の際被害にあわなかった2つのドームは一番左にあり、メフメト2世の時代に建てられたもの。10部屋の台所では合計1500人が働いており、それぞれの役割は異なっていた。かつての台所では世界各国からオスマン帝国に寄贈された陶器などのコレクションが展示されている。
第3の中庭構内
Bab-us Saadet ( 幸福の門 )をくぐると目の前にスルタンの玉座がある。この部屋のほとんどはセリム1世の時代に建てられたもの。ディーヴァーンで会議が開かれている間スルタンはこの玉座で議決を待ち、賛成・提案するなどしていた。
第3の中庭の中央にある大理石の建物はアフメト3世の図書館で、一般公開されていない。宮殿の外にある彼自身が建設させた噴水に比べると大変質素な建物である。
幸福の門の両脇の部屋は、帝国の学校であった。ここで学んでいたのはほとんどがキリスト教徒の子供で、10歳くらいになるとここで教育を受けはじめ、イスラーム教に改宗させられていた。教育後彼らはイェニチェリに入隊したり、帝国の行政に携わるなどした。現在はスルタンたちのガウンなどが展示されている。幸福の門から入って右奥にはSeferli Odasiと呼ばれる体育場やセリム2世のハマムがある。オスマン帝国史で最も有名なスルタン、スレイマン大帝の息子であったセリム2世は酒飲みで、泥酔状態のときにこのハマムで転倒し、そのときの怪我がもとで死去した。
財宝室
幸福の門から入って右手奥にはメフメト2世のパビリオンがある。ここでは現在トプカプ宮殿の財宝が展示されている。中でも有名なのは3つの大きなエメラルドが光り輝くトプカプの短剣。これはもともとマフムート1世がイランのナーディル・シャーへ贈ったものだったが、短剣が届く前にシャーが死去し、結局トプカプ宮殿へと短剣は戻された。エメラルドのうちひとつには時計が隠されている。短剣が贈られる前にナーディル・シャーはスルタンへ宝石がちりばめられた玉座をプレゼントしていたが、これも財宝室で展示されている。
もうひとつの有名な財宝はスプーン細工師のダイヤモンド。これは世界で5番目に大きなダイヤモンドで、1648年にメフメト4世が即位式の際ターバンに装着していたもの。ほかにもムラト3世の即位を記念にエジプトがプレゼントした金の玉座や、日本からアブドゥルハミト2世に贈られた上品な銀細工のトプカプ宮殿のモデルなどがある。
聖なる外套の館
中庭をはさんで財宝室の向かい側にある。ここで展示されているのはイスラーム教の神聖な遺品で、セリム1世が1517年にエジプトを支配した際にイスタンブルに持ち帰ったもの。これらの遺品はかつて宗教行事などの特別な日にスルタンやその家族らのみが拝見できたが、1962年に一般公開されるようになった。展示物のなかには預言者ムハンマドの足跡や歯、髭、外套があるほか、4人の正統カリフの剣が飾られている。また人込みが集るのは預言者ムハンマドがコプト人へあてて書いた手紙。
第4の中庭構内
歴代のスルタンにとって最もプライベートな空間はこの第4の中庭構内にある。マルマラ海とボスフォラス海峡を見渡す絶好のロケーションに多くのキョシュク(別館)が立ち並ぶ。
バグダード・キョシュクは1638年にムラト4世のバグダード征服を記念に建てられた。ターコイズブルーのイズニックタイルが美しい。
オスマン帝国の歴史上悪名高いスルタン、デリ・イブラーヒム(狂人のイブラーヒム)が建てたイフタリイェ・キョシュクからは金閣湾や新市街が見える。断食月(トルコ語でラマザン)にここで断食明けの食事(イフタル)をしていたことからこの名がつけられた。
割礼の間(スンネット・オダス)もデリ・イブラーヒムの時代に建てられた。外部は16-17世紀のイズニックタイルで覆われている。レヴァン・キョシュクはメフメト4世のエレヴァン征服を記念に建てられた。
トプカプ宮殿内で一番最後の増築物はメジディイェ・キョシュク。現在はコンヤルというカフェ・レストランとなっている。非常に高いので、チャイなどを注文して休憩するくらいがちょうどよい。
ハレム
西洋が作り出した妖しいハレムのイメージが現在も根強く残っているせいか、ハレムはトプカプ宮殿内でも最も人気のある見どころとなっている。チケットは別売りなので、見学したい場合はあらかじめ宮殿の入場券と一緒に購入しておかなければならない。ガイドつきでグループで見学する。
ハレムの歴史
ハレムはアラビア語で「禁断」の意で、ここではスルタンの妻や女性の家族、子供たち、女奴隷が住んでいた。第4の中庭にあるスルタンのキョシュク群とハレムはつながっており、400以上もの部屋から構成されている。
ハレムの女性達のなかでも最も有名なのはおそらくスレイマン大帝の妻、ハセキ・ヒュッレム(ロクセラーナ)だろう。彼女は女奴隷の出身で、スルタンが奴隷と結婚するのは異例の出来事であった。ヒュッレム・スルタンの後、ヴァーリデ・スルタン(君主の母親)が影の権力者として政治力を持つ時代が始まった。実際にヒュッレムはスレイマン大帝をそそのかし、彼の宰相、イブラーヒム・パシャを殺させ、自分の息子であるセリム2世を即位させるために異母兄弟であるムスタファをも暗殺させた。セリム2世の妻、ヌル・バーヌがヴァーリデ・スルタンとなったとき、息子のムラト3世の部屋の近くにに自分の部屋を移したうえ、ディーヴァーンでの会議などをたやすく盗み聞きしていた。ムラト3世は放蕩生活を送る一方、ヌル・バーヌは彼の有能な宰相であったソクルル・メフメト・パシャをも殺させた。
トプカプ宮殿で女奴隷の数が増えるにつれオスマン帝国は衰退していった。マフムート1世(1730-54)の時代にはその数は688人にも上り、アブドゥルアズィズ(1861-76)の頃になると809人にも膨れ上がった。女奴隷のほとんどはその外観から、グルジアなどのコーカサス地方の出身が多かったが、ハンガリーやポーランドなどから連れてこられた捕虜などもいた。ハレムの住民となる際、奴隷達はハズネダル・ウスタと呼ばれる調教師からスルタンたちへの振舞い方などを学んでいた。当時ハレムの女性達は不衛生な環境で生活していたため、多くの女奴隷は疫病などが原因で死んでいった。しかしスルタンの寝室へ入る許可を得た者は、皇族の女奴隷としてランクアップし、自分に仕える者を持つことができた。またスルタンとの間に子供ができると、自分の部屋が与えられスルタンのお気に入りまたは妻となることもあった。しかしスルタンの愛情が急に冷めてしまった場合、彼は自分の家臣に女奴隷を譲ったりもしていた。
ハレム構内
ハレムの中心はスルタンとヴァーリデ・スルタンの部屋。その周辺にはスルタンの妻やお気に入り、娘や幼い皇太子、彼らの世話をする人たちの順で部屋が並んでいる。ハレムの入り口は馬車の門と呼ばれ、おそらく女奴隷達が遠出をする際馬車がこの門から入ってきたためこの名前が付いたと思われる。
馬車の門から内部へ入ると、すぐ左側に槍兵の兵舎がある。槍兵は皇室の護衛の役割を担っており、ハレムに必要なものを運ぶなどして決められた時間のみ働いていたが、その際も目隠しをさせられていた。ハレムにつながる馬車の門と鳥かごの門を守っていたのは黒人の宦官で、彼らはハレムの責任者であったが昼間のみハレムへ入ることができた。夜は女性の奉仕人が宦官達に代わったが、何か異変が起こったときは宦官の長に連絡していた。
「黒人宦官の間」はハレムツアーでおそらく最初に訪れる場所だろう。1665年7月24日に起きた大火事の後、再建された形で残っている。この火事は悪意のある奉仕人によって起こされ、その被害はディーヴァーンまで達した。
ヴァーリデ・スルタンの部屋も1665年に再建されたもの。ドーム型天井の食堂は特に目を引く。
スルタン自身の部屋はセラムルクと呼ばれ、その中でも最も大きいのはヒュンキャル・ソフラスと呼ばれる皇帝の間。ここでスルタンは訪問者と楽しい時間を過ごしていたという。オスマン帝国最大の建築家、ミマール・スィナンが手がけたムラト3世の寝室も必見。16世紀のイズニックタイルで覆われた壁には、コーランの節が書かれており、大理石でできた噴水と銅製の暖炉が部屋のアクセントとなっている。
そのほかにも眺めのよいアフメト1世の図書室や、花と果物の壁画がかわいらしいアフメト3世の食堂がある。
通常ハレムツアーは馬車の門から始まるが、もうひとつの鳥かごの門は歴代のヴァーリデ・スルタンの一人であったキョシェム・スルタンが80歳で暗殺された場所である。キョシェム・スルタンはムラト4世と狂人イブラーヒムの母親で、息子達が王座にいた間帝国にかなりの影響力を持っていた。しかし孫であったメフメト4世の代になってもいまだに権力を振るっていたため、メフメト4世の母親であるトゥルハン・ハティジェの命令で黒人宦官長により暗殺された。