ディヤルバクル(Diyarbakir)

チグリス川(トルコ語ディジュレ)のほとりにある都市・ディヤルバクルはかつてクルド人分離主義をかまえるクルド労働党(PKK)のテロ活動などで不安定な時期が続いており、観光にも適さなかった。しかしPKKのリーダーであったアブドゥッラー・オジャランの1998年のシリア追放やそれに続く逮捕などで、トルコ-シリア国境でのテロ活動はイランやイラク国境地域に移動し、現在の都市の状況ははほかのトルコの大都市と変わらないくらい安定している。住民のほとんどはクルド人で、服装もがらりと変わる。シヴェレク地域出身の男性は藤色、ディヤルバクルの南や西方面出身の男性はチェック柄のターバンを巻いているなど地方性もある。町を歩いていると子供たちが跡をつけてきたり話しかけたりなど、外国人に積極的に干渉する人たちも多い。一人でのんびり旅行するには適さないが、よくも悪くも強烈な印象を与えること間違いない。
ディヤルバクルでは失業が大きな問題で、物乞いや働く子供たちなども多く見かける。重要な特産品はスイカぐらいで、チグリス川のほとりで栽培され、時には50キロを超える巨大スイカも育つという。

ディヤルバクルの歴史
世界最古の都市のひとつであるディヤルバクルは、約5000年前のフルリ人国家の時代にはすでに形成されていたという。その後ウラルトゥ、アッシリア、ペルシア、アレキサンダー大王、セレウコス朝の順に統治された。
115年にディヤルバクルはローマ帝国領となり、この頃ディヤルバクルはアミダと呼ばれていた。297年に都市を取り囲む最初の城壁が建設されたが、現在の城壁はローマ時代の土台に建てられたビザンツ時代のものである。玄武岩でできた黒っぽいおびただしい城壁のため、ディヤルバクルは「黒のアミド」とも呼ばれていた。
638年、アラブ人のバクルという部族がアミダを支配し、「バクルの地方」の意味である現在の都市名・ディヤルバクルと改名された。アラブ軍の衰退が始まるとセルジューク朝、アルトゥク朝が支配し、最後にはオスマン帝国領となった。
トルコ共和国の建国後、政府はクルド人自治を承認しなかったため、1925年にディヤルバクルを中心に反乱が勃発した。都市は包囲され、何百人ものクルド人がその場で処刑された。


ディヤルバクルの城壁
長さ約6キロ、メインの門が4つあるほか、72もの塔が立ち並んでいる。城壁の基礎はローマ・ビザンツ時代にさかのぼるが、そのほとんどはマリク・サーリフ・シャーのマルトゥク朝が11世紀に建設したものである。マルディン門の辺りには城壁に登れる箇所があり、ここから城壁を歩いて一周することができる。

ハルプットの門とイチカレ
城壁の入口として一番保存状態がよいのはハルプットの門。ここから城壁内に入りイッゼットパシャ通りを左に曲がるとサライの門があり、これはディヤルバクルでも一番古い地区であるイチカレの入口。さらに行くと城壁の外へ出るディジュレの門があり、ティグリス川とスラム街の印象的な風景が広がる。
イチカレ自体は軍隊の管理下にあるため、ハズレティ・スレイマン・ジャーミィ以外は見学できない。このモスクは1160年にアルトゥク朝によって建設されたもので、モスクの噴水(シャドゥルヴァン)に通う水はおそらくディヤルバクルの最初の水源だったと思われる。
見学できないのは聖ヨハネ教会とキュチュック・キリセ(小さな教会)。どちらの教会もあまり詳しいことは知られていないが、現在聖ヨハネ教会は刑務所として使用されている。

マルディンの門からウルファの門まで
この付近の城壁は最も印象的。マルディンの門からは城壁に登ることができ、広いところでは3人が横に歩けるほどのスペースがある。ここからウルファの門へ向かうとイェディ・カルデシ・ブルジュ(7人兄弟の塔)と呼ばれるセルジューク朝のライオンや2つの頭を持つ鷹の装飾をもつ稜堡へ着く。ここからチグリス川が眺められる。さらに300メートルほど進むともう一つの塔・メリクシャー・ブルジュがあり、ここでもセルジューク朝のモチーフなどが見られる。ウルファの門では城壁からの降り口がある。


ディヤルバクルの見どころ
城塞内を歩き回る際、ハルプットの門はいいスタート地点になる。この門の近くには15世紀後半に白羊朝が建てたネビ・ジャーミィ(預言者のモスク)がある。このモスクの特徴は黒い玄武岩と白い砂岩がストライプを描いていることで、特に尖塔の模様ははっきりしている。どちらの石もディヤルバクルで採掘されるため、このタイプの建物は市内でよく見かけられる。ガーズィパシャ通りに位置する16世紀後半に建てられ今日も店舗が並んでいるハサンパシャ・ハヌもその一例。

ウル・ジャーミィとその付近
ハサンパシャ・ハヌの向かい側には、ディヤルバクルの代表的なモスク・ウル・ジャーミィがある。1091年にメリク・シャーによって建てられたアナトリア初のセルジューク朝モスク。伝承によると、アラブ軍が639年にディヤルバクルを占領した際、このモスクの場所にはビザンツ帝国時代の聖トマス教会が立っており、ウル・ジャーミィはこの教会の石細工を利用して建てられた。1155年には火事に見舞われた後大幅に修築され、それ以来モスクの構造はほとんど変えられていない。外観はダマスカスのウマイヤード・モスクにもよく似ている。
モスクの入口にはライオンや雄牛などのレリーフがある。広大な中庭はおそらくモスクの内部よりも印象的。モスクの建設には初期ローマ・ビザンツ時代の円柱なども使用されており、ギリシャ文字が入ったものもある。中庭の北西側には1198年にアルトゥク朝によって建てられたメスディイェ・イスラーム修道院がある。アナトリアで最初の大学となり、現在はコーラン学校となっている。
モスク内の中央部分は12世紀よりもずっと前の構造であることが明らかで、以前教会であったことを示唆している。白いミンベルは優美で、尖塔はディヤルバクルにあるほかのモスク同様、高くて角ばっている。
ウル・ジャーミィの周辺には著名な現代詩人・ジャーヒット・ストゥク・タランジュの家を改造してできた文化博物館がある。詩人の生涯や作品に関する展示物などがあるが、家自体も面白い。
トルコの民族主義思想の父であるズィヤー・ギョカルプ博物館もウル・ジャーミィ付近にある。

そのほかのディヤルバクルのモスク
サファ・ジャーミィはズィヤー・ギョカルプ博物館の西にある。ディヤルバクル特有の白と黒を基調とした中庭とモスク内部のブルーとグリーンのタイルが美しいモスク。
ディヤルバクル最大のモスク・ベフラム・パシャ・ジャーミィは1572年に地方首領であったベフラムパシャによって建てられた。すぐそばにはディヤルバクルの建築様式が垣間見れる19世紀の私邸・ジャーヒットパシャ・キョシュクがある。
カスム・パーディシャー・ジャーミィは16世紀にディヤルバクルがオスマン朝帝国領となる前に建てられた白羊朝の最後のモスク。その高い尖塔は4つの円柱によって支えられているため、ドルトゥアヤックル・ミナーレ(4つ足の尖塔)とも呼ばれる。言い伝えによると尖塔の周りを7回まわると願いがかなうらしい。
ほかにも15世紀建造のイスケンデルパシャ・ジャーミィやファーティヒパシャ・ジャーミィがある。

ディヤルバクルの教会
カスム・パーディシャー・ジャーミィの近くにはシリア正教会・ケルダーニ・キリセスィがある。外から見ると納屋みたいだが、内部は結構派手なつくり。
アルメニア人がディヤルバクルの人口の4分の1を占めていた頃、もっとも華やかな教会であったスルプ・ギラゴス・キリセスィもケルダーニ・キリセスィに近い場所にあるが、道順は結構複雑。この教会のドームは1992年に落下してしまったが、現在も祭壇には金塗りの木細工などが残っている。地元のキリスト教徒は教会の隣にある小さな家を礼拝所として使っている。
ベフラムパシャ・ジャーミィの南西にはもう一つのシリア正教会・聖マリア教会がある。中庭周辺の建物のなかには7世紀の修道院がある。教会自体は3世紀に建てられたもので、世界最古の教会の一つである。毎週日曜朝8時にシリア語またはトルコ語で礼拝が行われるが、それ以外の時間帯は見学可能である。小さなキリスト教コミュニティの活動の維持のためにも、見学の際は寄付を忘れないようにしたい。

ディヤルバクル博物館
都市城塞の外、中央郵便局の近くにある。中世に東アナトリアから西ペルシアを支配したトゥルクメン王朝である黒羊朝や白羊朝の展示部門などもある。

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