ディディム(ディディマ)

ディディム-ディディマ (Didim-Didyma)

イオニア都市の中で最も簡単にアクセスできる遺跡。ソケから頻繁にディディム行きのドルムシュがでている。またディディムのアルトゥンクム・ビーチ自体も夏は観光客で賑わっており、アポロン神殿観光の後遠浅のエーゲ海で泳ぐのもオプションのひとつ。ホテルやマーケット、レストランなどもたくさんある。

ディディマの歴史
イオニア人が紀元前11世紀にディディマに定住を始めた頃よりずっと以前に、ディディマではある種の神託所が存在していた。この神託所は古代アナトリアの神を祭ったものだったが、イオニア人とともに伝わったアポロン信仰に取り替えられ、聖なる井戸と月桂樹の木を中心に神殿は栄えることになった。古代ギリシャでディディマはデルフィとともに聖域とみなされており、デルフィ出身の司祭の管轄下にあった。ディディマは宣託が下る神殿のみで構成され、町を形成することはなかったが、次第にミレトスの私有物となった。
アルカイク式の神殿の建設は紀元前8世紀に始まり、200年かけて完成した。当時の神殿はデザインの面で現在の神殿に似ているものの、大きさはその半分ほどだった。紀元前494年にイオニアの反乱が失敗に終わると、この最初の神殿はペルシア人により破壊され、アポロンの神像を含む財宝などが略奪された。アレキサンダー大王はペルシア帝国からアポロン像を取り戻し、現在遺跡に残っている新しい神殿の建設に着工した。彼の死後は後継者であるセレウコス朝が建設を受け継いだ。
アポロン神殿の建設は一向に終わる気配がなく、ローマ帝国からも補助金がでたが、決して完成することのない神殿の建設は500年続いた。難しい建築技術や、円柱だけで現在の価値で400億円することを考えると、建設におけるスローペースはなんとなく納得がいく。キリスト教が布教すると神殿の役割は終わり、また385年のテオドシウスの勅令で多神教崇拝が禁止されることになり、神殿建設は中止された。中世に起こった地震により神殿は所々崩れ落ち、付近のギリシャ住民の村であったイェロンダでは神殿の石を借用してできた家々が現在も見られる。
ディディマが神託地として頂点にあった頃、ミレトスだけでなく西へ6キロ離れた入り江からも聖なる道を通ってアポロン神殿へアクセスできた。神殿へ近づくと道の両側には大理石像が立ち並んでいたが、現在道は残っておらず、像は1858年に英国博物館へと持ち去られた。

ディディマ遺跡のレリーフ
ディディマ遺跡のレリーフ
ディディマ遺跡
階段付近にあるメドゥーサの首はローマ時代のまぐさから剥がれ落ちたもので、ディディマ遺跡の顔となっている。
かつて巡礼者は最初にメドゥーサの首の下にある聖なる井戸を訪れ、ここで身を清めていた。次に現在も残る円形の祭壇でいけにえを捧げた後、神殿へと向かっていた。廃墟と化した現在の神殿からでさえ、当時の壮大さを想像するのは困難でなく、かつての巡礼者は敬意を抱くとともに圧倒されていたに違いない。神殿は108本ものイオニア式円柱で囲まれており、階段をのぼった高い位置にあった。イオニア式円柱のうち当時の形で残っているのは3本だけだが、これとは別にかつて神殿の入口の屋根を支えていた12本の円柱の跡がある。祭司は入口で巡礼者から何について宣託を伺いたいかを聞き、しばらくして祭司はテラスに現れ、巫女が下した神託を伝えるという手順になっていた。宣託の内容は個人的なものから国家の事情に関するものまで様々で、後世まで保管されていた。
アポロンの聖像や月桂樹の木、聖なる井戸はさらに小さい神殿の中で祭られていたが、このミニ神殿は崩れ去り、現在その形跡のみが見られる。聖なる井戸のみが比較的はっきり残されているが、現在事故防止のために近づくことができない。デルフィの神託所と同様、宣託は巫女が受けており、巫女は聖なる井戸の水を飲むか、この水で身を清めるかまたは水の蒸気を吸い込まなければならなかった。巫女の神託はうわごとに似たものだったが、祭司により正されて外で待つ巡礼者にわかりやすく伝えられた。
聖域へは2つのトンネルから入ることができる。聖域の中心は屋根つきではなかったが、当時20メートルを越える壁によって囲まれていた。現在はその半分の高さしか残っていない。

アルトゥンクム・ビーチ
ディディム遺跡から南へ約5キロほど行ったところにあるアルトゥンクム・ビーチとは「金の砂浜」の意味。金はないが細かい砂浜と遠浅のビーチは子供や泳ぎが苦手な人でも楽しめる。シーズン中はイギリスからのパッケージツアー客で賑わい、トルコ人よりも多いほど。ビーチ付近のレストランもイギリス人向けの食事がパウンド表示で用意されており、トルコでなかなか見られないベーコンなどもある。
夏はボドルム行きのフェリーが大抵朝に出航しており、バスを利用するよりは断然近道となる。