テルメソスはアンタリアから約30キロ離れたトロス山の海抜1050mに建設されたピシディア古代都市。珍しい動植物が生息しているため、現在国立公園となっている。
テルメソスはその名から(2つのSが続いていることから)小アジア起源であることがわかる。ストラボによると、テルメソスの人々はピシディア人であり、自らを「スリミ」と呼んでいた。「スリミ」はアナトリアの神ソリメウスから派生していると考えられている。ソリメウスはその後ギリシャ神話の神ゼウスと同一視されるようになり、テルメソスでは特有なゼウス・ソリメウス信仰が起こった。トルコ語ではソリムと呼ばれるようになり、現在もアンタリア出身の人々のなかには苗字に使われていることもある。歴史でテルメソスが最初に登場するのは、紀元前333年にアレキサンダー大王がこの都市を「鷹の巣」にたとえたうえ、テルメソス征服をあきらめたことである。古代の歴史家であったアリアノスはこのことについて「テルメソスの自然は大きな防御の役割を果たし、軍隊は小さくても都市を守ることができた」と述べている。アレキサンダー大王はテルメソス征服に失敗した憤慨のなか、北方へと向かいサガラソスを攻撃した。
アレキサンダー大王の死後、紀元前319年に彼の後継者の一人であったアンティゴノスとアルケタスの間に闘争が起こり、アルケタスはテルメソスへと逃げ込んだ。テルメソスの若者たちはアルケタスを支援していたが、長老たちは彼をアンティゴノスへ引き渡すことを決めた。これを知ったアルケタスは、敵に殺されるよりは自殺を選び、彼の遺体はアンティゴノスによって3日間いたぶられた。テルメソスの若者はアルケタスの死を悲しみ、彼の亡骸を埋葬し墓を建てた。
アレキサンダー大王の征服失敗の40年後、テルメソスはプトレマイオス朝エジプトの支配下に入った。
テルメソスは次第にヘレニズム化が進み、この時代に古代劇場などが建設され、娯楽や政治目的の会議などに使用された。紀元前3世紀にはリキア同盟と戦争状態にあり、また紀元前189年には同じピシディア人であるイシンダとも戦うなど、隣国との戦争に巻き込まれるようになった。しかしテルメソスはベルガマ王国の王アッタロス2世と友好関係にあり、アッタロス2世はこの友好を記念にテルメソスに2階建てのストアを建設した。
テルメソスはローマ帝国の同盟都市であったため、ローマ元老院から自治権を与えられ、ある程度の自由と権利が保障されていた。ガラティアの王アミンタス(紀元前36-25年)と一時提携したが、この時期を除くと半独立状態を長い間保ち続けた。テルメソスの貨幣にも、自治国であるということが示されている。ハドリアヌス神殿など、テルメソス遺跡のほとんどはローマ時代に建てられたものである。キリスト教が布教されると、テルメソスの主教は公会議などに参加するようになったが、震災や都市の遠隔が原因で5世紀から7世紀にかけてテルメソスは次第に廃墟となった。
テルメソスへは2世紀にテルメソス市民によってつくられた「王の道」から行くことができる。要塞の東側にはさいの目を使った占いに関する碑文が残っている。このような魔法や呪文などの迷信はローマ時代に広く受け入れられており、テルメソス市民も占いなどに特に興味を持っていたと考えられている。
テルメソス遺跡の中でもアゴラの建築構造は興味深い。アゴラの3面はストア(ギャラリー)によって囲まれており、北西の2階建てのストアはペルガモン王国のアッタロス2世によって、また北東のアゴラは裕福なオスバラスというテルメソス市民によって建てられた。アゴラの隣の遺跡はジムナシウムだと考えられるが、現在草木などに覆われていて分別しづらい。
アゴラの西側にある2世紀の古代劇場は、当時5000人もの観客が収容できた。ここからはパンフィリアの平原が見渡せる。古代劇場から約100mはなれたところには、紀元前1世紀のオデオンがある。上階はドリス式の装飾がほどこされているが、下階には装飾がなくシンプルである。この建物はもともと屋根があり、東西の壁にある11の大きな窓から光が差し込んでいた。オデオンでは様々な会議が開かれていたと考えられている。
テルメソスには全部で6つの神殿があったと考えられている。ゼウス・ソリメウスやアルテミスに捧げられた神殿はオデオンの近くで発見された。ゼウス・ソリメウス神殿跡は残念ながらほとんど残っていない。一方、アルテミスには2つの神殿が捧げられており、そのうちひとつはアウレリア・アルマスタという女性と彼女の夫の資金で2世紀後半に建てられた。もうひとつのアルテミス神殿はテルメソスで最大のドリス式神殿である。
さらに東には、3世紀初頭に建てられた神殿があり、神殿入口が右側にあることから、ギリシャ神話の半神半人または英雄に捧げられたものと推測されている。
アッタロス2世が贈ったストア付近には2つのコリント式の神殿がある。2世紀または3世紀に建てられたと思われるが、誰に捧げられたのかはいまだにわかっていない。
公式の建物の遺跡のほかに、典型的なローマ式住宅の跡も残っている。この住宅はテルメソスを建設した者の家であるとの碑文が残されているが、事実かどうかは疑わしい。
テルメソス遺跡を北から南へは道が通っていて、道の両側には店舗や優秀なレスリング選手の像などが並んでいた。
遺跡の中には大きな墓場があるが、悲劇の将軍アルケタスの墓もここにある。財宝目当ての者によって墓は荒らされたが、現在もアルケタスが描かれているレリーフが残っている。ほかの墓もその装飾によって社会的地位を見分けることができる。裕福だった故人の墓の装飾は凝っていて、また墓荒らしをする者は神々の怒りを買うことを示した碑文などが刻まれている。