シャンルウルファ

シャンルウルファ(Sanliurfa)

ほとんどのトルコ人は単にウルファと呼ぶ。ガーズィアンテップ同様、ウルファも1918年から1920年にかけてのフランス軍攻撃に対し町を守り通したため、これを記念にシャンルウルファ(栄光のウルファ)と改名された。
ウルファは預言者アブラハム(トルコ語でイブラーヒム)の生誕地としても知られており、ムスリムに限らず多くの巡礼者が訪れる場所である。美しいモスクやトルコというよりは中東の雰囲気が漂うバザール、おいしいケバブなどウルファの魅力を満喫するには最低2日の滞在が必要だろう。
ウルファの住民のほとんどはクルド人。町で特に目を引くのは顔にヘンナの刺青をした女性たち。男性の服装はだぶだぶのズボンに伝統的なチェック柄の頭巾を巻いている。

ウルファの歴史
トルコのほかの都市と比べてもウルファは相当古い歴史を持つ。ユダヤ教やイスラーム教の原典でも、預言者アブラーハムが神の啓示を受けウルファからカナーンの地へと移動したと述べられている。また預言者ヨブのウルファに一時期住んでいたとの説もある。
伝承はともあれ、ウルファが何千年も昔に形成された都市というのは間違いない。ウルファの最初の住民はアナトリア最古の民族のひとつ・フルリ人で、紀元前3500年ごろに現在の城塞がある場所に要塞を建設し、周辺地域を支配し始めた。フルリ人はこの町をオルホイと名づけ、おそらくこの名からウルファと呼ばれるようになった。その後ヒッタイト、アッシリア人、アレキサンダー大王とこの地の支配は受け継がれた。アレキサンダー大王はマケドニアの都市にちなんでエデッサと改名し、ローマ帝国領となった後も重要な都市であり続けた。
2世紀以降、エデッサはキリスト教徒の中心地となり、特にネストリウス派は盛んになった。ビザンツ帝国が衰退するとアラブ人支配の時代に入るが、11世紀に第一回十字軍遠征ではフランス伯爵・ブーローニュのボードワンにより征服され、エデッサ伯国が建国された。しかし長くは続かず、1144年には再びアラブ軍がエデッサを占領し、第2回十字軍の口実ともなったものの、結局エデッサはキリスト教徒に忘れ去られてしまった。1260年にはモンゴル軍の進撃を受け、完全復興できないまま1637年にオスマン帝国の一部となった。


ウルファの見どころ

町の中心地を通るサライオニュ通りの南端にはカラ・メイダン(黒の広場)あり、ここには19世紀建造の壮厳なユスフパシャ・ジャーミィがある。また現在修築されて美術館となっているハジュハフズエフェンディの家もカラ・メイダンにあり、展示品を鑑賞した後中庭で涼むのもよい。
カラ・メイダンを超えてさらに南へ向かうとディーヴァーン通りへと続き、南西には12世紀のウル・ジャーミィがある。シリアのアレッポにあるグランド・モスクをモデルにしたもので、モスクの尖塔はもともとビザンツ教会の鐘楼だった。
ディヴァーン通りの東側には中世の家々が並んでいる。石灰岩でできていて、格子付きの窓や装飾の細やかなコンソールなどが目を引く。さらに南へ行くと16世紀の隊商宿であったギュムルック・ハヌがあり、中庭にはチャイハーネがある。周辺は迷路のようなカパル・チャルシュ(屋内バザール)で、香辛料から布地などほとんどなんでも見つけることができる。とくにタバコ(巻きタバコ用)やトマトペースト、シリアから輸入された(違法な場合がほとんど)チャイなどは有名。

バザールの東には預言者アブラハムが生まれたと言われる洞窟・イブラーヒム・ハリルッラー・デルギャフがある。ハリルッラーは「アッラーの友達」の意。伝承によると当時アッシリアの暴君であったネムルート(ニムロード)は生まれた子供を次々と殺していたため、預言者アブラハムは10歳までこの洞窟で暮らさなければならなかったという。
洞窟はメヴリディ・ハリル・ジャーミィの中庭にあり、このモスクとともに洞窟は多くの巡礼者が訪れる。そのほとんどはトルコ各地からのイスラーム教徒で、観光客の数よりも多いくらいだ。入口は男女に分かれており、女性は髪などを覆わなければならない。この付近にはまた預言者モハンマドが髪の毛が奉納されている洞窟があり、この洞窟のそばにも新しく建造された。

アブラハムの洞窟から歩いてすぐのところにギョルバシュと呼ばれる公園がある。ここには2つの聖なる池があり、たくさんの鯉が泳いでいる。伝承による と、預言者アブラハムは洞窟生活の後町の神殿の偶像を次々と破壊した。これに激怒したネムルート王はアブラハムを城塞の胸壁から炎へと突き落としたが、炎は水へ、まきは鯉に変わったという。このため池の鯉は神聖視されており、この鯉を食べるものは盲目になるとも言われている。
池のそばにはアイニ・ゼリハ(ネムルート王の娘の名から名づけられた)と呼ばれる場所があり、チャイハーネやレストランが並んでいる。この池ではボートなどを借りることもできる。もう一つの池はハリルル・ラフマンまたはバルックル・ギョル(魚のある池)と呼ばれており、巡礼者が多く見かけられる。周辺には12世紀のモスクを17世紀に修築したアブドゥルラフマン・ジャーミィや18世紀のルズヴァニイェ・ジャーミィがある。アブドゥルラフマン・ジャーミィの尖塔は12世紀のオリジナルのままである。
現在残っているウルファのカレ(城塞)の構造のほとんどは、12世紀のエデッサ伯国時代のものである。城塞は廃墟と化してしまっているが、頂上からのウルファの眺めはよい。頂上には巨大なコリント式の円柱があるが、3世紀ローマ時代の教会の跡と考えられている。また一説によるとこれはネムルート王の王座で、ここから預言者アブラハムが炎へ突き落とされたとも言われている。

ギョルバシュから北へ伸びるヴァーリ・フアトベイ通りを行くと、セラハッティン・エユビ・ジャーミィがある。このモスクは昔の聖ヨハネ教会をモスクに変えたもので、内部は教会の時とほぼ同じレイアウトである。さらに北へ行くとフルフルル・ジャーミィが見えるが、このモスクももともとは12使徒のアルメニア教会。月と星の彫刻があるモスクの尖塔は教会時代には時計塔として使われていた。
ウルファ市内を横切る流れるカラコユン川は伝統的な旧市街の境目である。ここには2つのオスマン朝時代の石橋にはさまれたビザンツ時代の水道橋(525年建造)がある。川岸には1920年のフランス軍の攻撃による銃弾の跡が今でも残っている古い家屋がある。
カラコユン川の北にはウルファの考古学博物館があり、庭には多くの石彫刻や石棺などがある。内部の展示物のなかにはユーフラテス川流域の古墳やハランから出土した宝石や陶器などがある。また民族誌学のコーナーではかつてウルファに住んでいたキリスト教徒の生活に関する彫像や昔の家屋の木造扉などもある。ヒッタイトやアルメニアの碑文も展示品のひとつ。


ハラン
シャンルウルファから南東約45キロ、さらにシリア国境に近い蜂の巣のような泥塗りの家が連なる村。今日このような村はトルコ国内ではほとんど残っておらず、そのためか近年かなり観光地化されてきている。
創世記では預言者アブラハムがウルファからカナーンへ移動する際、ハランでもしばらく住んでいたと述べられている。
ハランの定住は6000年以上前に始まったと考えられている。アッシリア人の交易中心地であったと同時に、月の神シンの崇拝でも知られており、大神殿も建てられた。この神殿はのちにサビアン教徒によっても使用されていた。現在は神殿の変わりに十字軍の要塞が建てられている。
紀元前53年にカルラエ(現在のハラン)の戦いでパルティア軍に大敗したローマ将軍クラッススは、ここで拷問され溶解した金を口に詰められた。この敗北にもかかわらず、ハランはのちにローマ帝国の一部となり、ビザンツ帝国、アラブ軍の支配下でも重要な学問の中心地となった。アラブ軍の時代にハランでは大学が創設されるなどしたが、13世紀にモンゴル族が侵入すると町は破壊され、ハランの繁栄は終わりを告げた。

現在のハランの住民はアラブ人とクルド人で成り立っており、農耕や羊の売買で生活している。点在する泥塗りの家は彼らの作品であり、家を支える木材などは使用されていない。今日では住居としてではなく倉庫や家畜小屋として使われている。

ハランの遺跡
一番印象的なのは8世紀にアラブ軍のカリフによって建てられたウル・ジャーミィ。その優美な塔はアラビアのロレンスが1909年にハランを通過する際大聖堂の鐘楼と勘違いしたという。周辺にはアラブ時代の大学跡があり、おそらく当時はかなり美しい複合施設であったと考えられる。
以前の神殿跡には11世紀に建てられた十字軍要塞がある。要塞のなかにある遺跡群はほとんどぐずれかけているものもあり、注意が必要。
また村の北東にはアスランカプと呼ばれるライオンのレリーフつきの門がある。
ハランを見学する際に、地元の子供たちがお金やペンなどを要求してくる。うっかり子供たちの写真を撮ってしまうとさらにしつこくされたりする。


ハラン周辺
ハランの北西にある埃っぽい丘、テキテキダーには遺跡が点在しているほか、ハランから23キロ東のハネル・バルルには12世紀の隊商宿がある。さらに東へ続く道をたどるとシュアイブと呼ばれるローマ時代からモンゴル時代までの住居跡がある。その一部は地下都市で、現在も使用されている洞窟がある。
シュアイブから北に約12キロほど進むと、古代遺跡のソウマタル(スマタル)がある。ここはハランで広まっていた月の崇拝を受け継いだサビアン教の中心地で、初期キリスト教時代から信仰されていた。名目上一神教であったが、実際はバビロニア占星術が基礎となっており、天体そのものが崇拝されていた。人のいけにえなども信仰の一部で、ぞっとするような儀式も行われていたという。驚くことに9・10世紀までサビアン教徒はキリスト教徒であるビザンツ帝国の非難からうまく逃れていたが、アラブ軍が侵入、支配すると「イスラームへの改宗または死」の選択を迫られた。
ソウマタルの神殿跡には古代シリア語の碑文が残っているほか、村の中心にある洞窟には彫刻像や月の記章がある。村の子供たちは喜んで遺跡を案内してくれるが、その際はチップを渡すのを忘れずに。

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