ゲリボル(ガリポリ gelibolu gallipoli)

ゲリボルの歴史
古代ギリシャ語でカリポリ(美しい都市)と呼ばれていたのが、トルコ語でゲリボルとなった。ビザンツ皇帝ユスティニアヌス1世の時代に軍事食物倉庫として使われていた。13世紀から15世紀にかけて、ゲリボル半島はしだいにオスマン朝の支配下に入っていった。トルコ人以外にもギリシャ人やアルメニア人、ユダヤ人などが共存していたが、チャナッカレ戦争までは平和な時代を送っていた。

チャナッカレ戦争(ゲリボルの戦い)とアンザックの日
第一次世界大戦のさなか、ヨーロッパ諸国から「瀕死の病人」と呼ばれていたオスマン帝国の分割を目的に連合国軍はダーダネルス海峡突破のためゲリボルに上陸した(1915年4月25日)。連合国はイギリス・フランス・ロシアから構成されていたが、実際にこの戦争に動員されたのはほとんどがイギリスに属するオーストラリア・ニュージーランド連合軍(ANZAC)だった。この地上戦は凄まじいものとなった。「私は諸君に戦うことを命じてはいない。死を命ずる」は、一時トルコ軍が連合国軍によって追い詰められたとき、当時軍司令官であったムスタファ・ケマル(アタテュルク)の有名な言葉である。この命令にトルコ軍は励まされたのか覚悟を決めたのか、その後トルコ軍優勢の状態が続き、ついにANZAC軍は撤退、(1915年12月19日)そのほかの連合国軍も次第にチャナッカレの地から引き揚げていった。このチャナッカレ戦争では双方合わせて約50万人の犠牲者が出たといわれている。4月25日は「アンザックの日」となり、毎年この日に多くのオーストラリア人やニュージーランド人は、ゲリボルにある先祖の墓やチャナッカレ戦線の跡を訪れる。
チャナッカレ戦争は絶望に近い状況の中で、祖国解放戦争における決定的な勝利を得たトルコ人だけでなく、当時イギリスの属国であり誰と何のために戦っているかということすらも把握してなかったオーストラリア人やニュージーランド人の国民意識が高揚するきっかけとなった。

2005年にはチャナッカレ戦争勃発後90年を記念して、トルガ・オルネック監督の「ゲリボル(ガリポリ)」というドキュメンタリー映画が公開された。

ゲリボルの見所
国立公園
戦死者慰霊碑
アンザック村
ゲリボルメヴレヴィー教団





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