クサントスはかつてリキア同盟の首都であった。歴史上一時その名は忘れられていたが、イギリス人チャールズ・フェローズによって19世紀に発見され、世界的に有名になった。その歴史は大変古く、出土品の中には紀元前8世紀にまでさかのぼるものもある。トルコでも重要な遺跡であるクサントスは、ユネスコの世界遺産にも登録されており、現在もフランスの発掘隊によって発掘が行われている。
クサントスへはフェティエ以外にもパタラ、カルカン、カシュなどから簡単にアクセスできる。エシェン川を見渡す自然あふれるところにクサントス遺跡はあり、特に春には美しい景色が広がる。
クサントスの歴史は決して穏やかなものではなかった。リキア人の性格である断固たる独立意識のために、クサントスでは歴史上2度も集団自殺が起こった。紀元前540年にペルシアの将軍ハルパグスがクサントスを攻撃した際、都市の男たちはまず女性や子供、奴隷、財宝などすべてを焼き尽くし、絶望的な最後の攻撃にでた。これは征服される屈辱よりは死を選んだ結果だった。この集団自殺の際、ほかの町にいた8家族のみが生き残った。ペルシア王国を滅ぼしたアレキサンダー大王、彼の将軍であったアンティゴヌス、アンティオコス3世の順にリキアは統治され、その後一時ロードス島の支配下に入った。紀元前42年のローマ内戦では徴兵と資金集めを目的にブルータスによって攻撃され、クサントス市民は再び抵抗手段として集団自殺を図った。その凄まじさに驚いたブルータスは彼の軍隊に市民の自殺をとめるように命令し、成功したものには報酬を約束したが、結局150の市民だけが救済されたという。クサントスは長い間リキアの中心であり続けたものの、7世紀にはアラブ人の侵攻により廃墟となった。
クサントスでの出土品のほとんどはチャールズ・フェローズによってイギリスに持ち出され、現在大英博物館が所蔵しているが、クサントス遺跡にもまだ面白い遺跡が残っている。
ハーピーの墓柱の墓
実際には2つの墓が入っている。7,5mの高さであるハーピーの墓と高さはほとんど変わらない。おそらく紀元前3世紀または4世紀に建てられたと推測される。
クサントスのオベリスク
大きな柱状の墓に長いリキア碑文が刻まれたもの。紀元前5世紀に建てられ、その碑文の長さは250行におよぶ。この碑文は完全に解読されていないが、難しいとされるリキア語を解くのに大いに役に立った。
古代劇場
おそらく2世紀ごろに建てられたと考えられている。上部観客席部分はのちにアクロポリスの壁の建設のために使われた。舞台は部分的に残っているが、当時は円柱で装飾された2階建てだった。
アクロポリス(1)
古代劇場の上方にはおそらく紀元前4世紀に建てられたと考えられているアクロポリスがある。アルテミス神殿などの遺跡がここで発見されたが、ペルシア王ハルパグスによって破壊された。ここからのクサントスの谷の眺めはよい。
ローマ・ビザンツ通り
近年発掘された通り。以前この道沿いには多くの店舗が並んでいた。またこの付近にはビザンツ教会があり、すばらしいモザイク画が発見された。
アクロポリス(2)
アクロポリス(1)よりも後にできた。ビザンツ修道院やビザンツ城壁なども残っている。