人口百万人を超える南東部最大の都市。キリスト教徒地区を中心に優れた地方建築が見かけられるほか、歴史的モスクや現在も発掘作業が続いているガーズィアンテップ城などが主な見どころ。
トルコ人は単に「アンテップ」と呼ぶことが多いが、アンテップとはアラビア語のayn teb(よき泉)から派生している。昔この都市はアインターブと呼ばれていた。ガーズィは「イスラーム戦士」の意味。1920年に保護国であったシリアから北上してきたフランス軍は10ヶ月にわたりアンテップを攻撃したが、トルコ国民軍はアンテップを守り通し、このため都市名にガーズィがつけられた。
ガーズィアンテップでは地方料理やピスタチオも有名。ぜひ町のレストランで試してみたい。
ガーズィアンテップの歴史
ガーズィアンテップ城周辺では新石器時代(紀元前7000年―5000年)のころにはすでに定住が始まっていたが、実際に歴史には紀元前2500年―1900年ごろに栄えたヒッタイト以前(ハッティ)の都市国家として登場する。紀元前717年にはアッシリア王・サルゴン2世によって征服され、その約100年後にはクリミア半島からスキタイ人に追われて南下したキンメリア人の領土となる。紀元前612年からはペルシアの支配が始まり、この支配は紀元前333年にアレキサンダー大王がこの地を征服するまで続いた。南東アナトリアのほかの都市と同様、ローマ、ビザンツ、アラブ、セルジューク朝の順で支配されたアンテップは、1516年にはオスマン帝国の一部となった。
オスマン朝時代にアンテップはアルメニア人を中心とするキリスト教徒が多く住むようになり、現在も多くのアルメニア教会が残されている。
ガーズィアンテップ・カレスィ周辺
町を見渡す城塞(カレ)はローマ帝国時代後期に建てられたと考えられているが、12世紀から13世紀にかけてセルジューク朝が大幅に修築した。全部で36の塔があるが、これらもセルジューク朝時代のものである。1998年から発掘作業が行われており、城塞は公式にオープンされているわけではないが、入場は可能。近年浴場や大きな中世のトンネルなどが出土した。
城塞からギュムルック通りを行くとバザール地区がある。ここでは地元の特産品を作っている職人の姿が見かけられ、セデフ(真珠層)がはめ込まれた家具や日用品、サモワールや火鉢、水差しなどの銅製品などが売られている。ほかにも特産品としてイェメニと呼ばれる皮製スリッパや、刺繍入りベストなどがある。バザールを一歩抜け出すと雰囲気ががらりと変わり近代的なショッピング通り(歩行者天国)が広がる。
ガーズィアンテップ博物館
ヒッタイト時代の陶器やローマ時代のモザイク・墓石などガーズィアンテップの歴史が時代別に展示されている。またノスタルジックな古いカメラや昔のラジオや子供のおもちゃなども展示品のひとつ。
旧キリスト教徒・ユダヤ教徒地区
町の南東部には昔のキリスト教徒地区があり、この付近では外敵に備えて井戸や地下食糧倉庫、さらには馬小屋までが備えられている家などがある。その一例はハサン・スゼル民族詩学博物館で見ることができる。展示物はさておき家の構造はなかなか面白い。男性専用のセラムルクや地階には旧食糧庫があり外の気温よりも約13度涼しい。上階からは近くにアルメニア教会らしきものが見えるが、博物館から教会への道は多少複雑で地元の人に聞くのが一番。この教会は現在はモスクとなっており、新しい名前はクルトゥルシュ・ジャーミィ。モスクに変えられる前は戦時中に刑務所として使われていた。正面の黒と白の石細工はフランスの広場に面する建物を思わせるほど上品。ポーチはコリント式の円柱で支えられている。教会の内部では祭壇を隠すために新しく小部屋が設けられ、機械織りのカーペットや新しいミフラブやミンベルはあまり趣がない。モスクの尖塔には登ることができ、教会のドームやその後方の町を眺めることができる。
ガーズィアンテップ近郊
カルカムシュ
ガーズィアンテップの南東部・シリアとの国境沿いに位置する古代都市・カルケミシュである。ミタンニやヒッタイトなどの古代王国の重要な都市であり、聖書にもバビロニアとエジプトの戦争が起こった場として言及されている。1910年―1915年の間には英国博物館の支援でトーマス・エドワード・ロレンス(アラビアのロレンス)を含むイギリス人考古学者によって発掘作業が行われ、ギルガメシュ叙事詩などを描いたレリーフなどが見つかった。遺跡で出土したものはアンカラのアナトリア文明考古学博物館に展示されており、遺跡現場にはあまり見るべきものは残されていない。またシリア国境に数キロほどしか離れていないため、見学にはトルコ軍の許可が必要。残念ながら付近で進行中のダムの建設のためいずれカルケミシュ遺跡も水に埋もれる予定である。
ゼウグマ(ベルクズ)
ガーズィアンテップの東・ユーフラテス川のふもとにある古代コンマゲーネ王国の重要都市。アレキサンダー大王の部下であったセレウコス1世によって紀元前300年に建てられた。当時都市の名前はセレヴカヤ・ユーフラテスだった。セレウコス1世の娘がコンマゲーネ王国のミトリダテス1世と結婚すると、セレヴカヤ・ユーフラテスはコンマゲーネ王国領となった。都市の名がゼウグマとなったのは紀元前64年にローマ帝国によって占領された後で、ゼウグマとは「橋のそば」という意味である。
ゼウグマ遺跡での発掘作業は1987年に始められた。1996年にはビレジク・ダムの建設開始が予定されていたため、ガーズィアンテップ博物館を中心とする発掘チームはペースを上げ、モザイク画が美しいローマ時代の邸宅をはじめローマ浴場、ジムナシウムなどを掘り起こした。
ゼウグマ遺跡の特徴はユーフラテス川から収集された色とりどりの石でできたモザイク画である。ディオニュソスとアドリアネの結婚、トロイ戦争でのアキレウスとオデュッセウス、ディオニュソス・オケアノス・テテュスと海生物、ミノタウロスなど多くのギリシャ神話の登場人物が描かれている。そのほとんどはガーズィアンテップ博物館で展示されている。しかし、2000年10月についにビレジク・ダムが完成し、悲しくもゼウグマ古代都市のほとんどは水に沈んでしまった。
ビレジク
ガーズィアンテップから東に焼く40キロ、ユーフラテス川のふもとにある町。11世紀に十字軍が建国したエデッサ伯国の要塞が残っているが、特に近くから見学するほどのものではない。
ビレジクはまた絶滅の可能性があるホアカトキの生息地で、郊外にはこの鳥の飼育所が公開されている(有料)。この付近ではほかにも鷹やふくろう、のどの部分が黄色いスズメなど、珍しい鳥が観測される。