エフェスの歴史は紀元前1500年から1000年の間にイオニア人の定住によって始まったと推測されている。エフェスの最初の王アンドロクロスはカリア人との戦争によって戦死し、エフェス市民は最初の君主にささげる記念碑を建てた。紀元前7世紀にエフェスはキンメリア人に征服され、アルテミス寺院など多くの建物が破壊された。この時代以降、エフェスは多くの暴君や独裁者によって支配されるようになった。
紀元前6世紀になると、リディア王のクロエススによってアルテミス寺院は修復された。しかしクロエススがペルシアとの戦いに敗北すると、エフェスはほかのイオニア都市とともにペルシアの支配下に入った。
エフェスはサルディスとスサを結ぶ重要な地点であり、貿易において最大のライバルであったミレトスはイオニア人の侵略で滅びたものの、エフェスは栄えていった。
アレキサンダー大王はエフェスのアルテミス寺院を重要視していた。アレキサンダー大王の軍指揮者であったリュシマコス(lysimachos)はピオン山とコレッソス山の間に新しいエフェスを建てるなどし、この当時エフェスは円形劇場やスタジアムなどで繁栄した。
紀元前88年にエフェスはポントゥスの支配者ミスリダテスとともにローマ帝国との戦いを始めたものの、その後ローマの属州となり、またエフェスはローマ帝国の小アジアにおける首都となった。紀元後1世紀までエフェスはローマや隣国との関係をよく保っていたが、紀元後17年の地震によってエフェスは完全に破壊されてしまった。その後ティベリウス大帝の時代に修築され、ハドリアヌス大帝によって様々な寺院などが建造された。この新しい建物によって、エフェスはヘレニズムの特徴を失い、ローマ帝国の建築スタイルを持つようになった。
キリスト教が布教されるころになると、エフェスは政治上だけでなくキリスト教上の重要性も持つようになった。聖母マリアは晩年をエフェスで過ごしたといわれている。しかし、貿易港としてのエフェスは衰退し、ユスティニアヌス帝の時代にはアヤソルクの丘へと市民は移住していった。アヤソルクの丘にはユスティニアヌス帝が建てた聖ヨハネの教会もある。1090年にトルコ人によって支配されるまで、この地は栄え続けた。
古代エフェス
古代エフェスはヒッタイトの文献に登場するアルザワ王国の首都、アパサだと考えられている。アルテミス神殿は当時最大の建物であると同時に「世界の7不思議」のひとつであり、有名なたくさんの胸を持ったアルテミス像はここに奉られていた。
ローマ時代のエフェス
ローマ時代にはエフェスは小アジア州の首都となった。当時エフェスは現在の遺跡よりももっと低い位置にあったが、紀元前3世紀にリシマチュスによって再建された。エフェスの人口は紀元後100年には50,000人に達したと推測されており、ローマ帝国のアジア領の中でも最大都市となった。ローマ時代に数々の浴場が建設されたほか、当時の水路システムは今日のシステムにも劣らないほど発達していた。
エフェスはまた初期キリスト教の歴史においても重要な地位を占めている。聖パウロはエフェソスを中心に布教活動を行っていたが、アルテミス神殿で生計とたてていた職人たちとの論争に巻き込まれたなか、「第一コリント人への手紙」をエフェソスで書いた。聖ヨハネも1世紀後半にパトモス島の流刑から解放された後エフェソスへ移り、エフェソス教会の主教となった。エフェソスは「ヨハネの黙示録」の7つの都市の1つである。聖ヨハネはここで死去したといわれている。
聖母マリアが晩年を過ごした最後の家もビュルビュル山にあり、毎年巡礼者が訪れる。エフェソスはまた、431年にキリスト教ネストリウス派を異端とするエフェソス公会議が開かれた場所でもある。
エフェソスでは6世紀に港の沈降が進み、またアラブ軍の攻撃を受けるなどし、住民はアヤソルクの丘へと移住し、都市は廃墟となった。
現在エフェソス遺跡観光の起点としてセルチュクという町がある。ここではエフェス博物館のほか、聖ヨハネ教会、セルジューク朝のモスクであるイーサベイジャーミィなどの見所がある。