イスタンブル(Istanbul)

紀元前13世紀にミケーネ人による定住跡が現在のイスタンブルで確認されているものの、この時代に関する詳しいことはわかっていない。紀元前667年にメガラ人のビザスという将軍によって都市が形成され、彼の名にちなんでビザンティウムと名づけられたというのが一般的な説である。ビザスがこの地に定住する前に、デルフィのアポロン神殿で「盲目の都市の向かい側に都市を建設せよ」との信託が下った。ビザスはカルケドン(現在のカドゥキョイ)ではすでに都市が形成されているのに対し、その向かい側の半島(現在のサライブルヌ)は戦略的に絶好のロケーションにあるにもかかわらず定住されていないのを見て、盲目の都市はカルケドンであると考え、サライブルヌでビザンティウムの都市建設を始めた。
紀元前1世紀にはローマ帝国のアジア領の一部となった。305年にローマ皇帝ディオクレティアヌスが健康上の問題で退位すると、リキニウスとコンスタンティヌスの間で戦いが始まった。コンスタンティヌスはリキニウスをクリソポリス(現在のユシュキュダル)の戦いで破り、330年にはローマ帝国の首都をローマからビザンティウムへ移し、コンスタンティノポリス(コンスタンティヌスの都市)と改名した。395年にはテオドシウス1世の2人の息子によりローマ帝国は東西に分割され、コンスタンティノポリスは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都であり続けた。西ローマ帝国とは違った独特の文化を形成し、ギリシャ語が公用語となり当時まだ根付いていなかったキリスト教も布教されていった。
532年、ユスティニアヌス帝の時代に起こったニカの反乱のあと、アヤソフィアなどをはじめ都市は再建設され、さらに拡大した。しかしその半世紀後、アラブ人やペルシア人、スラブ人などがコンスタンティノポリスに侵攻し、ビザンツ帝国は次第に衰退していった。テオドシウスの城塞のみがコンスタンティノポリスをこれらの侵略や攻撃から守っていた。しかし1204年の第4回十字軍の攻撃は防ぐことができず、十字軍は都市を破壊した。ビザンツ皇帝ミカエル8世パレオロゴスはコンスタンティノポリスをロマニア国王から奪還し、以前より縮小したもののビザンツ帝国の再建に成功した。
同時期にオスマン帝国は勢力を拡大し、コンスタンティノポリスのオスマン朝支配は時間の問題だった。ついに征服王ファーティヒ・メフメト2世による7週間の包囲のあと、1452年にコンスタンティノポリスは陥落、ビザンツ帝国は滅亡した。
メフメト2世はコンスタンティノポリスを征服したあとも、この地のギリシャ人やアルメニア人の定住を促し、他宗教にも寛容であった。この伝統はベヤジット2世にも受け継がれ、彼はスペインから多くのユダヤ人の難民を受け入れた。 
ヤヴズ・セリムはオスマン帝国の領土を大規模に拡大し、スレイマン大帝の時代(1520-66)には最盛期を迎えた。またオスマン朝最大の建築家、ミマール・スィナンもこの時代に活躍した。
17世紀になるとオスマン帝国の衰退が始まった。アフメット1世によって導入された「カフェス制度」はスルタンが帝位についたとき、後継者であるスルタンの兄弟はカフェス(牢屋)に閉じ込められ、スルタンの帝位が終わるまで監禁されるというものだった。こうしてスルタンの在位は脅かされず、兄弟間の権力争いによる暗殺も防がれたが、帝位が巡ってきたときには長い監禁生活の末正気でなくなっていることがほとんどだった。スルタンたちは戦場よりはハレムを好み、またハレムの女性たちが事実上権力を握っていたこともまれでなかった。
宮殿の退廃によりほとんどの領土が失われるなか、オスマン帝国の再建のため1876年にセリム3世は西洋の立法制度をモデルとして最初の憲法を発布し、国会を開いた。この国会はアブドゥルハミド2世によって解散させられたが、帝国再建の波は次第に強まり、1909年にアブドゥルハミッド2世は廃位した。第一次世界大戦後にイスタンブルは主にイギリスの軍隊からなる連合国軍によって占領されたが、祖国解放戦争後トルコ共和国が成立すると、首都や政府機関は中央アナトリアの小さな町アンカラへと移転した。政治の中心都市ではなくなったものの、現在も様々な文化が息づくイスタンブルはトルコでも最大の大都市である。
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