アンタルヤ(Antalya)

アンタリアの歴史

アンタリアは紀元前1世紀にペルガモン王国の王アッタロス2世によって建設された。王の名前にちなんでこの地はアッタリアと名づけられ、その後アダリアとなり、現在のアンタルヤとなった。
ヒッタイトの文献にもアンタルヤは「ルッカの地(リキア)」の一部として登場する。リキアはその独立精神で有名な民族であるため、ヒッタイトやアルザワ王国もリキアと平和を保つことは難しかったようだ。
アンタルヤは紀元前7世紀にリディア王国の支配下に入ったが、紀元前546年にリディア王国はサルディスの戦いでペルシア人に滅ぼされた。紀元前334年にはアレキサンダー大王によってアンタルヤ地方は徐々に征服されたが、テルメソスとシリヨンはその支配を逃れた。アレキサンダー大王の死後、彼の後継者たちによる紛争は期限船188年まで続いた。セレウコス朝の衰退により、ペルガモン王国は最盛期に達し、アッタロス2世はアッタリアを海軍基地として建設した。ペルガモン王国の最後の王アッタロス3世が死去すると、アッタリアはローマ帝国の支配下に入り、海賊の巣窟となった。ビザンツ帝国時代である5世紀や6世紀までアンタルヤは都市要塞を越えるまでに発展し続けたが、7世紀にはアラブ軍が都市を支配した。その後再びビザンツ帝国領となったが、1207年にセルジューク朝の支配を受け、1432年にはオスマン朝のスルタン、ムラト2世により征服された。オスマン朝領域にありながらも、18世紀に地方を実際に統治していたのはデレ・ベイ(領主)で、ほかのベイ君主はアナトリアでとっくに衰退していったにもかかわらず、近代まで有力な領主として存在した。1911年の統計によると、アンタルヤにはムスリムのほかにもキリスト教徒やユダヤ人などが地域別に住んでおり、その人口は25,000人にも達していた。第一次世界大戦から1923年のトルコ共和国の建国まで、一時的にイタリアに占領された。
聖書にもアンタルヤはアッタリアの名で登場する。ピシディアとパンフィリアでの布教後、聖パウロはアンタルヤからアンタキヤへと船で渡ったという。


アンタルヤの見どころ

カレイチ
カレイチとは「要塞の中」の意。アンタルヤの旧市街で、現在カレイチの建物は修築され、ホテルやカフェバー、店舗などが並ぶ観光スポットとなっている。

ハドリアヌス凱旋門
パンフィリア地方で最も美しい門とされる。130年にハドリアヌス帝のアンタルヤ訪問を記念に建てられた。この凱旋門は都市要塞によって囲まれたため長い間使用されず、要塞が崩れたときに発見されたため、保存状態はよい。上部には3つの窓があり、柱以外は白い大理石でできている。凱旋門の両側にある塔はその後付け加えられたもの。

ケスィックミナーレとコルクットジャーミィ
ベヤジット2世の息子コルクットにより5世紀の教会をモスクに変えて建てられた際、ミナーレ(尖塔)が付け加えられた。19世紀におきた火事で尖塔の木造部分は焼失してしまったため、その名はケスィック(切られた)ミナーレとなった。

イヴリミナーレ
セルジューク朝によって13世紀に建てられた、アンタルヤで最初のイスラーム建築のひとつ。現在アンタルヤのシンボルとなっており、8の縦溝があることからこの名が付いた。

アンタルヤ博物館
14の展示ホールを持ち、トルコでも有数の博物館のひとつ。第一次世界大戦後、一時アンタルヤを占領したイタリア人によって発掘された数々の作品が展示されている。計約5000の展示品がある。

コンヤアルトゥビーチ
アンタルヤ市内から西へと伸びているビーチ。アンタルヤでも有数のホテルがビーチ沿いに並ぶ。アンタルヤ県内にあるほかのビーチ(ララ、ベレッキ、ケメルなど)に比べると海水は多少冷たいが、これは海に流れ込む地下細流のため。


アンタルヤ周辺の遺跡
パンフィリアの古代都市・・・アスペンドス、ペルゲ、シリヨン、シデ
ピシディアの古代都市・・・サガラソス、テルメソス、アリアソス、セルゲ


アンタルヤ市外のビーチ
ララ、ベレッキ、ケメル、ベルディビ


カシュとアンタルヤの間にある古代リキア都市
オリンポス、ファセリス

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