アンタキヤではトルコの都市の中でも一風変わったアラブの雰囲気がある。実際、第一次世界大戦後にオスマン朝が分割されたあと、この地域(ハタイ県)はフランスのシリアにおける委任統治領となり、トルコ共和国に返還されたのは1939年になってからだった。このため、住民の中にはアラブ人が多く、町ではアラビア語が話されているのをよく耳にする。
アンタキヤは紀元前4世紀、アレキサンダー大王の死後、彼の将軍の一人であったセレウコス・ニカトルによって「オロンテスのアンティオケイア」の名で建設された。アンティオケイアはのちにセレウコス朝シリアの首都となり、商業都市としてめまぐるしく発展した。紀元前2世紀には人口50万の古代有数の大都市となった。当時通じたばかりのシルクロードの通過点でもあり、学問の中心ともなった。セレウコス朝が滅びたあと、紀元前64年にはローマ帝国のシリア州の首都となった。また市民は過度の道徳観念で有名であったため、これを抑制するために聖ヨハネは最初のキリスト教共同体をアンティオケイアに置いたといわれている。キリスト教徒が最初にクリスチャンと呼ばれるようになった都市もアンティオキアである。
6世紀に都市を襲った数々の地震にもかかわらず、ローマ帝国滅亡後もアンタキヤは栄え続けた。7世紀にはアラブ軍によって支配されるが、10世紀には再びビザンツ帝国領となった。1098年の第一回十字軍遠征では南イタリアのターラント公であったボエモンは8ヶ月にわたる包囲の末アンタキヤを陥落させ、アンティオキア公国を建てた。1268年にはエジプトのマムルーク朝がアンティオキア公国を滅ぼし、1516年にアンタキヤはついにオスマン朝の支配下に入ると、アンタキヤは長い間世界史から姿を消すことになった。土砂の沖積によってオロンテスの港もすっかり埋まってしまい、アレキサンドリア港(イスケンデルン港)がこれにかわるようになった。かつての大都市アンティオケイアは衰退の一途をたどった。現在のアンタキヤは比較的小さな町である。
アンタキヤ市内の見どころ
アンタキアはアーシ川(古代のオロンテス川)によって二つに分かれている。アーシ川の東側は旧市街で、バザールやビザンツ教会を改築してできたハビービ・ナッジャルジャーミィがある。このモスクから東へと歩くとムスリムにとって聖なる場所であるハビービ・ナッジャルが住んでいた洞窟がある。彼は預言者の一人であり、キリスト教徒に殺害されたあと彼の頭部はモスクに、胴部はこの洞窟に埋葬されたといわれている。ローマ時代から残っている遺跡として、トラヤヌス帝の水道橋が南東にある。
アンタキヤ考古学博物館
アーシ川にかかる3世紀に建てられたラーナ橋付近にある。この博物館は世界的にも保存状態のよいローマ時代のモザイクで有名。そのほとんどはアンタキヤの南にあるハルビエ(古代名ダフネ)の郊外で発掘されたもので、当時の日常生活を描いたものや興味深いギリシャ神話を描いたモザイク画が展示されている。
聖ペテロ教会
聖ペテロがアンタキヤに滞在した間(47年―54年)、キリスト教徒に説教した洞窟。世界最古の教会で、キリスト教徒を意味する「クリスチャン」はここで派生したと考えられている。教会の正面は12世紀に十字軍によって建てられた。内部はひんやりとしていて5世紀のものと思われるモザイク画がある。祭壇の右側には洗礼盤があり、ここの水は健康によいと評判の泉から来ている。祭壇の左側には初期キリスト教徒が迫害の際逃げ道として使っていたトンネルがあるが、現在入口はふさがれている。
聖ペテロの命日である6月29日にはアンタキヤのキリスト教徒によってこの教会でマスが行われる。
教会の周辺にはセレウコス朝時代の石棺がある。
アンタキヤ周辺
聖シメオン修道院
アンタキヤでは4世紀ごろにキリスト教信者の間で柱の上で生活するという一風変わった修行が行われていた。この創始者は大シメオン・スティリティスで、彼の教会は現在もシリアのアレッポ近郊にある。この修行形態は小シメオンによって受け継がれ、彼の修道院はアンタキヤの南西、サマンダーへと続く道の途中にある。小シメオンはまず鎖で自らを岩につないだあと高い柱へと次第に昇っていき、13メートルの高さにたどり着いた。ここで彼は25年もの年月を過ごし、アンタキヤ市民の道徳的堕落を批判する言葉を途切れ途切れに発していたという。現在もシメオンが暮らした柱の土台は残っており、彼に影響を受けた熱心なキリスト教徒によって柱の周りに修道院が建てられた。
チェヴリック
サマンダーの北にある。古代名はセレウシア・ピエラで、アンタキヤに首都が移転される前、セレウコス朝の最初の首都だった。聖パウロや聖バルナバのキプロスへの布教もここが出発地だった。様々な遺跡が残っているが、その中でも面白いのは長さ130メートルに及ぶティトゥス・ウェスパシアヌスのトンネルで、洪水や港の沖積を防ぐためにローマ皇帝ウェスパシアヌスとティトゥス帝の時代に(69年―79年、79年―81年)建てられた。トンネルの周辺には12のローマ時代の石墓がある。