ビザンツ建築の傑作。アヤソフィアはもともとギリシャ語で「聖なる英知」の意。最初にキリスト教大聖堂としてコンスタンティウス2世によって360年に建てられたが、404年と532年に焼失した後、ユスティニアヌスによって再建、537年に完成した。
1453年にコンスタンティノープルが陥落した後、アヤソフィアはモスクへと転用され、あまり改築はされなかったものの、モザイク画などは漆喰などで塗りつぶされた。その後多くのオスマン朝建築家によってアヤソフィアを技術面で越えるモスクの建築が試みられた。ファーティヒ・ジャーミィの建築を担ったアトゥク・スィナンは、アヤソフィア寺院の規模を上回ることに失敗したため、メフメト2世によって処刑された。
現在残っているモザイク画の多くは2階のギャレリーで見ることができる。
16世紀にオスマン帝国の建築家であるミマール・シナンが壮麗なモスクを建築するまで、アヤソフィアはイスタンブルにそびえたつ唯一の壮麗かつ偉大な建築物だった。トプカプ宮殿とスルタンアフメット・ジャーミィの間に位置し、現在いつ終わるとも知れない修復作業が続けられている。
アヤソフィアの歴史
アヤソフィアとは「聖なる英知」の意。大聖堂として同じ場所に360年にコンスタンティウス2世によって建てられた教会は、404年に焼失。再建されたが532年に起きたニカの反乱により再び焼失した。現在のアヤソフィアはユスティニアヌス帝によってこの反乱の後に再建されたもので、建築家はミレトス出身のイシドレとトラレス出身のアンテミウス。建築様式は当時のビザンツ帝国にとっても革命的なもので、オスマン帝国最大の建築家、アトゥク・シナン(ミマール・シナン)がアヤソフィアに匹敵するモスクを建築し始めるまでの約1000年もの間、ビザンツ帝国の威厳の象徴であり続けた。ミマール・シナンは生涯をアヤソフィアをしのぐモスクの建築のために費やしたといっても過言ではない。
アヤソフィアのドームの高さは30メートルで、壁によって支えられているというよりは宙に浮いた感じがする。5年で建築完成したが、完成20年後に中央ドームが崩れ落ち、その後の地震などでも同様の破損が生じた。この時点ですでにアヤソフィアを手がけた建築家は2人とも他界していたので、ドームの再建は小イシオドルスにゆだねられ、ドームはさらに高く設計された。
ドームをはじめとするアヤソフィア寺院の様々なパーツの維持費や、ビザンツ帝国の人口・勢力ともに中世にはすでに急減していたことを考えると、いまだにこの寺院が崩れずに残っているのは驚くべきことである。
アヤソフィアに行われた最大の冒涜事件は、1204年に第4回十字軍がイスタンブルを略奪した再に起こった。アヤソフィアの祭壇は砕かれ、金銀の装飾物はことごとく略奪された。娼婦は総主教席に座ったり、「東方の賛美歌をばかにする」歌を歌いながら踊るなどした。当時アヤソフィアが所蔵していた聖遺物は残りのキリスト教世界のそれよりも多く、「世界が創造されて以来の略奪がコンスタンティノープルに起こった」と十字軍に参加した者によって記されている。
1452年にトルコ人の脅威に脅かされたビザンツ教会は不本意ながらも西方のカトリック教会との統合を承認したが、すでに遅かった。1453年5月29日にメフメト2世(征服王)率いるオスマン帝国軍はコンスタンティノープルを陥落した。メフメト2世はアヤソフィアの略奪を禁止し、聖遺物や偶像を取り除かせ、陥落後初の金曜礼拝をアヤソフィアでおこなった。アヤソフィアの南西に木製の尖塔が建てられ、16世紀後半にミマール・スィナンがアヤソフィアの修築に携わるまで残っていた。
19世紀半ばになるとスイス人のフォサッティ兄弟によってモザイクの修復作業が行われたが、これらのモザイクはまた覆われてしまった。1932年までアヤソフィアはモスクとして使用されていたが、修復され1934年に博物館として公開された。アヤソフィアを再びモスクに戻そうという署名活動があったものの、今日まで博物館として残った。
アヤソフィア博物館内
博物館内での主な見どころはモザイク画と大理石。しかし一見大理石らしきものもよく見るとフェイクであるものもある。紫色の大理石は珍しいエジプト産の火山岩で、2階のギャレリーにはテッサリア産の大理石が使用されている。
ギャレリーを支える大理石の円柱と、2階ギャレリーで使われている円柱の配列は上下バラバラで、これはおそらく近代建築の視点では考えられないほど危なっかしいことだろう。ギャラリーの西側には円形で緑のテッサリア産の大理石が残っており、これはかつて皇后の玉座であった。
ビザンツ時代のモザイク画は当時ランプまたはろうそくの火で照らされたときに最も美しくなるようにデザインされたものだった。ひとつひとつ丁寧にはめ込まれたガラスや金は、揺らめく光の中ではじめて生き生きとしたモザイク画となるのだった。現在おもに2階ギャラリーにあるこれらのモザイク画を鑑賞する際、自然光に頼るしかなく、モザイク画の美しさが昔ほど堪能できない。抽象モザイク画は6世紀のもので、南側のギャレリーや博物館入り口の天井などに優れたものが残されている。
人物を描いたモザイク画はすべて聖像破壊運動(726-843)が終わった後のもので、2階ギャレリーや博物館の入り口に残されている。2階ギャレリーにある偽物の大理石の扉を抜けると、キリストを中央に聖母マリアと洗礼者ヨハネが描かれたモザイク画がある。多少ダメージはあるものの、3者の表情豊かな顔は残されている。
ギャレリーの西側の壁には、キリストとビザンツ皇帝コンスタンティノス9世モノマコス、皇后ゾエが描かれている。コンスタンティノス9世はゾエの3番目の夫で、ゾエはコンスタンティノスと結婚する前に妹のテオドラとともにビザンツ帝国を統治していた。コンスタンティノスの上部には「信心深いローマの皇帝」、ゾエの方は「もっとも敬虔なるアウグスタ(ローマ皇帝の妻や親族の女性を表す語として使われていた)」などと書かれている。コンスタンティノスの顔や碑文は変えられた跡があり、もともとは彼よりも先の皇帝が描かれていた可能性もある。
ギャレリーにあるもうひとつのモザイク画は聖母マリアと幼いキリストがビザンツ皇帝・ヨハネス2世コムネノスと皇后イレネと共に描かれているもの。1118年に完成したこのモザイク画は表情豊かに描かれている。
聖母子像が描かれている別のモザイクは、教会の後陣と博物館出口にある。アヤソフィアから出る際、注意を引くため鏡に映し出されているモザイク画は10世紀後半のもの。聖母マリアと幼いキリストの右側にはアヤソフィアのモデルを献上しているユスティニアヌス1世が、左側にはコンスタンティノープルの都市を献上しているコンスタンティヌス1世が描かれている。おそらく現在アヤソフィア博物館の中で最も効果的に光が照らされている美しいモザイク画である。
博物館内でほかに目を引くものは「嘆きの柱」。通常観光客が群がっているのでどこにあるのかは簡単にわかる。古い伝説によると聖グレゴリウスがこの柱の前に現れて以来柱には涙のような露ができるようになり、この露は病にも効くと言われている。
アヤソフィアがモスクであった頃の作品としてメッカの方角を示すミフラーブやイスラーム僧の説教台であるミンベル、スルタンの玉座がある。アッラー、ムハンマド、アリーまでの4人のカリフの名が書かれている巨大な木製の板やドームのアラビア文字はアゼット・エフェンディの作品で、どれもアヤソフィアでフォッサティ兄弟による修復が行われていた時代のものである。