りんごの生産で有名な黒海地方の町アマシア。イェシルウルマックが町中を流れ平和な雰囲気が漂うが、かつてこの町は何度も戦争の舞台となった。
アマシア出身の歴史地理学者であるストラボン(紀元前64年―紀元後25年)によると、アマシアはアマゾン族の女王・アマシスにちなんで名づけられたという。実際にはアマシアではヒッタイト時代に都市が建設され、のちにアレキサンダー大王によって支配されたというのが有力な説である。アレキサンダー大王の死後、激動の時代を迎えたアナトリアでは多くの王国が形成された。ミトリダテスによって建てられたポントス王国もそのひとつである。ミトリダテスはキウス(現在のゲムリック;ブルサ)出身だったが、アレキサンダー大王の将軍であったアンティゴノスがキウスを占領しミトリダテスの父を処刑すると、アマセイア(当時のアマシアの名)ヘ逃げて紀元前302年にポントス王国を築いた。ポントス王国はその後約200年もの間続いたが、ミトリダテス6世が彼の軍隊にローマ人の大虐殺を命じたのをきっかけに王国の衰退は始まった。ローマ帝国との長期にわたる戦いの末、ついに紀元前70年ごろにローマの将軍ポンペイウスによりポントス王国は滅亡、ローマ帝国の属州となった。
ローマ帝国やビザンツ帝国の支配下でもアマシアは繁栄し、1071年にセルジューク朝に支配されたあとも重要な町であり続けた。この時代の優れた建築物は今でもアマシアに残っている。
モンゴル族に一時征服されたが、13世紀後半オスマン朝がモンゴル族に代わり勢力を増すと、アマシアもその領内に加えられた。マニサと同じように、アマシアはオスマン帝国の皇太子たちの修行都市となり、スルタンの息子たちはアマシアで州知事になるなど幼い頃から政治を学んでいった。また学問の中心地となり、18世紀までに都市には18ものメドレセ(イスラーム修道院)が建設され、2000人もの学生が学んでいた。
当時繁栄していたほかの都市のように、アマシアでは第一次世界大戦まで裕福なアルメニア人貿易商人が多く住んでいたが、1915年のアルメニア人大虐殺(事件の有無に関しては現在もトルコで議論中)の後アルメニア人たちはこの町から消えた。
トルコ共和国の建国に際しても、アマシアは重要な役割を果たした。1919年6月21日、ムスタファ・ケマル・アタテュルクはアマシアで祖国解放戦争のために軍隊の召集を呼びかけた。その後首都をアンカラとするトルコ共和国の建国などのプランが含まれている「独立宣言」が起草された。
この歴史的事件以来、アマシアは比較的静かな様相を保ったままである。
アマシアの見どころ
モスク、修道院、博物館
アマシアの中心地には1919年の訪問を記念に建てられたアタテュルク広場がある。この広場の一角に1326年に建造されたギュムシュル・ジャーミィーはかなりオリエンタルな外観であり、通常にない長いミナーレ(モスクの尖塔)がある。
1507年のピル・メフメト・チェレビ・ジャーミィーもまるで子供用のモスクのような小ささで目を引く。このモスクもアタテュルク広場のそばにある。
そのほかのモスクのなかで変わっているのは1242年に建てられたブルマル・ミナーレ・ジャーミィーで、コンパクトなモスクにねじれている尖塔が付いている。火災の後ほとんどが18世紀に修復された。アマシアで一番大きいモスクはスルタンベヤズィット2世のモスクで、1486年に建てられた。2つの中央ドームと小さな4つのドームが対称的に設計され、これに2つのミナーレが加わっているが、なんとなく均整がとれていない感じである。モスク正面は町を流れるイェシルウルマックに面し、モスク入口の両側には大理石でできた回転する柱がある。モスクにはイスラーム修道院と古いコーランの写本をも含む約2万冊の本を所蔵した図書館がある。
アマシアの考古・民族誌学博物館も是非訪れたい。1階に展示されているギョク・メドレセの扉のアラベスク・パターンの美しさがまず注意を引く。そのほかにもローマ時代のバスタブやオスマン朝時代の木製の戸棚などもある。2階の展示品のなかには青銅器時代の出土品やヒッタイトの嵐の神テシュバの像、ローマの墓から見つかったグラス細工などがある。
また博物館には5つの人間のミイラがある。これらはブルマル・ミナーレ・ジャーミィーから発見されたもので、モンゴル族支配者の末裔とセルジューク家の子供たちと考えられている。
博物館から西へ10分ほど行くと、そこには13世紀のギョク・メドレセ・ジャーミィーがある。このモスクの特徴はその扉だったが、博物館に展示さ扉にはかなり手の込んだ彫刻があり、かつてブルーのタイルで覆われていたという。モスクの隣にあるトゥルベ(霊廟)には、セルジューク朝時代の統治者であったエミル・トルムタイの墓がある。この霊廟にはセルジューク朝君主であったクルチュ・アスランの幽霊が出ることでも知られている。
アタテュルク広場から川沿いに北へ行くと、そこにも多くの歴史ある建築物が並んでいる。ブルマハーネ・メドレセスィはもともとモンゴル族によって1308年に精神病院として建てられた。残虐さで知られるモンゴル族がアマシアに残した驚きの建造物である。隣には今でも使われているスッヒ・ムスタファベイ・ハマムがある。その奥にはベヤズィット1世の息子であったアフメット王子の教師、メフメト・パシャのモスクがある。
また19世紀に建てられた割には古く見えるシュランル・ジャーミィーはトルコのアゼリー人によって集められた資金で建設されたと示されているが、なぜアゼリー人がアマシアにモスクを建てなければならなかったのかは不明。
そのさらに北の川岸にあるベヤズィット・パシャ・ジャーミィも美しい。川を挟んで向かい側には現在コーラン教室になっているビュユック・アー・メドレセスィがある。もともと1488年に大学として建てられた。
イェシルウルマックの北の崖にはポントス王の墓が並んでいる。墓と鉄道の間にはクズラル・サライ(乙女の宮殿)と呼ばれるかつてのオスマン朝の宮殿跡がある。この名前はこの城壁内にあったハレム(後宮)にちなんで名づけられた。残っている城壁のなかには今日カフェなどがある。夜これらの墓はきれいにライトアップされる。
ポントス王の墓の南には、川沿いにオスマン朝の住宅が並んでいる。過去の洪水などによって損害を受けたり、古い家の維持費は新しい家よりも高いことから、残念ながら古い家を新しく建て替えてしまった家主もいる。このオスマン朝住宅の中でも代表的なのはハゼランラル・コナウで、現在博物館として公開されている。内部には壁に彫られたオイルランプ置きや戸棚の奥に隠されたトイレなど、部屋の中の混雑を嫌う遊牧民らしい19世紀の典型的なオスマン朝の家が再現されている。
現在アマシアで残っている城塞はオスマン朝時代に建築されたものだが、城塞の基礎はポントス王国時代にさかのぼる。アクセスはちょっと難しいがここからのアマシアの眺めは素晴らしく、もし時間があったらぜひ上ってみたい(徒歩なら体力も要る)。